●アフガニスタンの地理
アフガニスタンの地形は、険しい山々と北部、南西部の平原で覆われている。限られた新鮮な天然水と飲料水も十分に供給されない、海岸線のない国である。
アフガニスタンはパキスタン、イラン、トルクメニスタン、ウズペキスタン、タジキスタン、中国と国境を接している。
国土全体を辻手、土壌の悪化、過度の放牧、森林伐採(まだ残っている森林も、多くが燃料や建築資材として伐採され続けている)、砂漠化、大気汚染、水質汚染、などの環境破壊が過去数十年にわたって進んでいる。
アフガニスタンは2002年、数回にわたる強い地震に見舞われ、2000人以上が死亡した。



●アフガニスタンの戦争
アフガニスタンは25年にもわたって、戦争に苦しめられてきた。
1979年、旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻・占領し、80年代を通して、アフガニスタンは冷戦構造の主な戦場の一つとなってしまった。1998年、ソビエト軍は撤退するが、共産主義者と反対勢力のムジャヒディン(自由の戦士)の間に紛争がつづいた。
また、ムジャヒディンの各派の間の闘争は多くのアフガニスタン難民の帰還を抑止させ、さらに、新たに多くの難民を近隣の国へ流出させた。
内戦の混乱は、イスラム原理主義運動のタリバーンが、その権力を掌握する結果をもたらした。
タリバーンの主要な支持基盤はパシュトゥン人であった。
そして、2001年9月11日を迎えた。
アメリカは、そのテロ攻撃はイスラム過激派、オサマ・ビン・ラディンがアフガニスタンから指揮したと主張し、2001年後半、アフガニスタンは世界の注目を集めた。アメリカ軍の軍事介入と攻撃によって、2001年10月、タリバーン政権は崩壊した。

アフガニスタンに、カルゼイを大統領とする暫定政府が樹立され、その統治期間は2年間とされた。任務は新しい憲法の制定、国軍の設立の監督、2004年6月に行われる選挙への準備である。
しかし、戦争がそれで終結したわけではなかった。それ以来、アメリカ軍はオサマ・ビン・ラディンと繋がりがあると思われるタリバーンの残党とイスラム過激派に対して軍事攻撃をつづけている。
アフガニスタンの治安状況の不安定な状況は、さらに、アメリカ軍のイラク攻撃によって悪化した。

また、国内の多くの地域で引き続き起こっている治安問題にもかかわらず、2001年末以来、180万のアフガニスタン難民がパキスタン、イランからの帰還を促されている。これは、警察による嫌がらせとアフガニスタンの経済的見込の超楽観的メディア報道との二つの組み合わせによって促進された。不安定な情勢、干魃、インフラ崩壊の中で、帰還者は生活の再建にあたって大きな困難に直面した。彼らはまた、公的・私的とを問わずふりかってくる気まぐれな暴力沙汰から身を守る術がない。

●アフガニスタンの難民
現在、少なくとも450万のアフガニスタン人が国外(ほとんどがアフガニスタンに隣接する国々)に難民、あるいは亡命希望者として住んでいる。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、2002年末現在でも、イランとパキスタンだけでそれぞれ200万人の難民、あるいは亡命希望者がいると推定している。
近隣諸国へばかりでなく、遠くヨーロッパや北アメリカへの亡命を希望するアフガニスタン人の数は、アメリカが1998年8月にはじめたアフガニスタンへの空爆以降、劇的に増加した。このことは政治状況の著しい過激化につながっている。

●アフガニスタン現代史
1767年から1973年まで、アフガニスタンは部族リーダーや王によって支配されてきた。中央政府はカブールにおかれた。
現在のアフガニスタンの国境は、1883年に引かれたもので、その頃アフガニスタンは、強力な大英帝国とロシア帝国の間で中立国だった。
1973年、前国王のいとこであり、首相だったモハメド・ダウドが大統領となり、君主政治に終わりをもたらした。新政府は当初、すべての政党からメンバーが参加していたが、時が経つにつれて反対勢力は抑圧された。中には国外へ逃亡した政治家もいた。

1978年、アフガニスタン人民民主党政権(PDPA)が発足し、モハメド・ダウドは殺 害された。この政党は共産主義であった。新政府は地方に改善プログラムを実行し ようとしたが、時として残酷な手法は大衆の反撥を引き起こし、抵抗運動のきっかけとなった。
アメリカは反政府運動を密かに支援し、紛争を助長した。PDPAに反対した人々は逮捕、殺害されるか、国を離れた。1977年から1980年の間に200,000人を越えるアフガニスタン人が逃走した。

1979年には、PDPAに対して武装した抵抗運動が強まった。この戦士たちがムジャヒディンとして知られる。そうして、1979年12月27日、旧ソ連軍が共産政権を護るべき、アフガニスタンに侵攻した。
1980年から1982年の旧ソ連の侵略中、ムジャヒディンはより組織化されていった。アメリカ、サウジアラビア、フランス、イギリスが、彼らに武器援助をした。戦闘が烈しくなり、1982年には300万以上のアフガニスタン人がパキスタンへ、およそ300万人がイランへ逃げ、500万人が国内難民となった。
しかし、1989年、ソビエト軍はアフガニスタンから撤退した。ソビエトはそれからさらに3年間、周辺地方からのムジャヒディンの攻撃に抵抗しつつ、都市部をコントロールしつづけたアフガニスタン政府を支援した。

1990年までに600万以上のアフガニスタン人が主にパキスタンとイラン等の国で難民となっていた。
1992年4月に政権を取ったムジャヒディンは、さまざまな派閥を一つにまとめることに失敗した。カブールとカンダハールは無政府状態に陥り、とりわけ専門家たちはアフガニスタンの他の地方に去るか、国外へと亡命した。
1993年、カブールで4つの部族の間に烈しい戦闘が勃発した。カブールの人口は200万人から50万人に減った。公共サービスはまったくなくなり、同市は飢餓寸前まで陥った。
ムジャヒディンは、人種、宗教、イデオロギー、それぞれの家系などによって分かれていたが、1992年から1996年の間、イスラム原理主義の新しい政治グループ、タリバーンが現われた。

1990年後半には、タリバーンはアフガニスタンの95%を支配下に入れた。カブール陥落後、1996年から1997年を通して、烈しい戦闘がタリバーンと反タリバーン勢力の間に起こった。反タリバーン勢力は、全国アフガニスタン救済イスラム統一戦線(統一戦線・以前の名前である「北部同盟」としても知られている)を組織し、指令本部を北部のマザシャリフに置いた。
1998年、主な戦闘地域がカブール北部に移った。カブールの町に、戦闘の小休止による、つかの間の平穏が訪れた。タリバーンはアフガニスタンのほぼ90%までを支配下に置いた。
タリバーンの厳しいシャリーア法(イスラム教の法典)解釈は、とりわけかつての共産政権時代を体験してきた都市部の男女に、厳しい苦難を強いるものであった。

1998年8月、タリバーンはマザシャリフを占領した。アムネスティ・インターナショナルは政治リーダーの拘留と殺害を報じ、穏健派アフガニスタン人の暗殺の増加傾向に注意をひいた。この時期の1999年末、およそ260万のアフガニスタン人が難民、約60万人が国内難民となっていた。2000年、ロンドンのスタンテッド空港行きのアリアナ・アフガニスタン航空機がハイジャックされた。多数の乗客が政治亡命を求めたが、ほとんどが拒否された。マスメディアによって多くのネガティブな報道がなされた。

そして、2001年9月11日事件。
11月後半、タリバーンとオサマ・ビン・ラディンに同調すると思われる人々に対し、アメリカは軍事行動を起こし、タリバーン政権の崩壊に導いた。ハミド・カルザイ議長率いる暫定政権が2001年12月22日に発足し、この政権は6ヶ月間アフガニスタンを統治した。ボン合意により、2002年6月、緊急国民大会議ロヤ・ジルガがカブールで開催された。選挙が行われ、カルザイ議長は次回の選挙がある2004年までの暫定政権の大統領となった。

カブールの新政権は、明らかに国際社会が期待しているような有力なものではなかった。地方や地元の権力者を黙従させる手段はなかったし、中央への忠誠の度合いによって交渉をしなくてはならなかった。
人権に関しても状況は依然として深刻である。女の子や女性は、今では教育、雇用の機会は以前より多くなったが、多くの取り決めを抱え分割された権力と無法状態の拡大に直面して、個人の安全は悪化した。
2003年3月、アメリカとイギリスによるイラク攻撃と同時に、アメリカはイスラム過激派とタリバーン残党捜査を強化した。アメリカ軍指揮官は、アフガニスタン東部では、いまもなおアルカイダとダルバーンの逃亡者がたくさんいると信じている。
連合軍は時に地元の軍閥の援助を得て、彼ら逃亡者を見つけ出すために定期的に攻撃を仕掛けている。

●民族的背景
アフガニスタンは多民族社会である。
最大規模の民族はパシュトゥーン(パシュトウ)で人口の38%を占めている。パシュトゥーン人はアフガニスタン東部と南部(パキスタンにも)に住んでいる。 ほかの3つの主要民族グループはアフガニスタン北部に住んでおり、トルクメン人、ウズベク人、タジク人である。ハザラ人、アイマーク人、ヌリスタン人は アフガニスタン中央部に住んでいる。
アフガニスタンでは権力の中央支配力は常に貧弱であり、アフガニスタン人はまず第一に家族に忠誠を抱き、次は自分の属する部族と民族グループである。

●タリバーン
アフガニスタン人のほとんどはイスラム教徒である。大多数のアフガニスタン人はスンニ派(ムハンマド以外には最高指導者はいないとする)で、およそ15%はシーア派(ムハンマドの従兄弟で女婿のアリーとその子孫をイスラム教の最高指導者で継承人とする)である。他の2%はイスマーイール派(6代目イマームの長子イスマーイールを正統7代目イマームとするシーア派の一派)である。
シーア派イスラム教徒はアフガニスタンでは迫害を受けていた。シーア派のほとんどはハザラ人で、アフガニスタン中部出身である。最近の紛争の要因の一つは、ハザラ人がアフガニスタンでのより大きな権力を求めたことであった。
1995年、急進的イスラム教徒の学生組織としてイスラム教スンニ派、タリバーンが現われた。その支持者の多くはパシュトゥーン人であった。
タリバーンの多くはパキスタンにいる難民であり、そこで特殊な急進派イスラム組織によって運営されているマドラサ(イスラム諸学を教える神学校)の生徒であった。
タリバーンは、サウジアラビアのワッハーブ派の非常に厳格なイスラムの教えの解釈をモデルとして、それを追求した。宗教警察によって強制される女性の教育、雇用へのアクセスの否定と厳しい行動と服装規定で注目される。またハザラ人に対する残虐行為にも責任があるとされる。

●教育
長くつづいた紛争とタリバーンによる制限の数々によって、アフガニスタンの教育事情は激しく崩壊している。ボン合意以後、教育分野にかなりの資金投入があり、女子は再び学校や大学に通うことが可能となった。しかしながら、十分に教育対策がとられるまでにはまだ時間がかかる。パキスタンやイランでの国外生活の経験から、女性の教育に関しては積極的な変化が見られる中、依然として社会の強い抵抗がある。急進的政党は、娘を学校に通わせる家族を脅したり、学校に放火したりしている。

●言語
アフガニスタンの公式言語はパシュトゥーン語とダリ(ペルシア)語である。
パシュトゥーン人の言葉であるパシュトゥを話す人口は65%以上、その他はダリ語(タジク人、ハザラ人など)である。
最も新しいアフガニスタンへの移民であるウズベク人、トルクメン人によって使われるチュルク語諸語はアルタイ語族に属する。彼らは中央アジアの大草原地帯出身の民族と同族である。

●産業と経済
アフガニスタンの経済は、都市部も地方も長年の戦争でひどいダメージを受けてい る。アフガニスタンは世界のもっとも貧しい国の一つである。産業が主要農業であり、主な作物は穀物、米、果物、堅果、野菜である。しかし、近年のの干魃はこれらに大きな被害を与えた。
その他の産業は小規模なもので、工芸、織物、絨毯、いくつかの食品加工であ る。輸出は主に果物、堅果、野菜と絨毯である。
アフガニスタンは、天然ガス、石炭、石油、宝石用原石などの豊富な鉱山資源に恵まれているが、不安定な治安状態のために有効活用に至っていない。麻薬、主として阿片が違法輸出を支配し、近隣諸国への密輸と共に、大規模なヤミ経済を支えている。

●保健と健康
アフガニスタンにおける保健部門は危機的状況にある。4人に1人の子どもが5歳に なる前に死亡する。そのほとんどの原因は、下痢、肺炎、麻疹、その他の伝染病である。保健に関わるインフラは、長年の紛争によりダメージを受けるか破壊された。
また専門の保健員の多くが、国を逃げ出している。伝染しがちな病気、栄養失調、貧困のために、残った限られた保健医療サービス提供者への要求が増えている。不十分な衛生と衛生設備、自然災害に対する極端な脆弱さ、女性や女の子への地理的、文化的理由によるアクセスの不十分さが、この状況をより悪化させている。
現在の平均寿命は男性で45歳、女性で46歳である。


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