◆2005年3月1日〜3月20日



2005年3月上旬、わたしたちは今年初の《ファンタジー劇場キャラバン》を行ないました。行程日数20日、訪問地はアフガニスタンのジャララバードとカブールにある孤児院、および帰還者キャンプです。延べ1500人の子どもたちにファンタジー映像を上映すると同時に、1000人以上の子どもたちに靴を届けることができました。
このキャラバンには新たな二つの目的がありました。一つは[靴]というアイテムを加えたこと、もう一つは上映地に孤児院と帰還者キャンプを選んだことです。
わたしたちは、「靴支援募金キャンペーン」を通して多くのご理解とご支援を得てきました。したがって、このキャラバンで[靴]を届けることは、みなさんから託された思いを届けることにほかならず、これを契機にLike Water Pressの方向性にも新たな要素が加わりました。
一方、孤児院と帰還者キャンプを訪れた目的は、アフガンの子どもたちの現実をこの眼でたしかめたいと思ったからです。
25年以上もの長い戦争がつづいたアフガニスタンはたくさんの孤児と難民を生みだしました。戦争で父親を失った子どもたちが街で働き、帰還者として自国に戻った難民は「帰還者キャンプ」での収容生活を余儀なくされています。そこでは、難民キャンプとはまた別の悲惨さ、荒廃ぶりが見てとれました。
しかし、そういう環境のなかでも子どもたちは育っています。ファンタジー映像を見るとき、新しい自分のための靴を受け取るとき、子どもたちはたくさんの笑顔と真摯な眼差しで応えてくれました。今回のキャラバンでの体験は、[ファンタジー映像]は眼差しから、[靴]は手と足から、その子どもたちと触れ合うコミュニケーションを与えてくれることを教えてくれました。



●靴支援募金キャンペーンのきっかけ
「靴支援募金キャンペーン」のきっかけは、昨年4月の朝日新聞に紹介された一つの記事だった。2004年夏を期限として、イラン政府が[アフガン帰還政策]を進めているが、アフガン難民男性とイラン女性の間に産まれた子どもはイラン国籍を認められていないため、母親は国を取るか、子どもを取るかの厳しい決定を迫られているというのだ。
イラン国内の難民支援組織によると、女性総数は4万人以上、その子どもたちは10万人以上にのぼるという。
当時、国際世論の眼はイラク紛争に向けられており、難民の置かれた厳しい状況にはまったく注意が払われていなかった。そこでわたしたちは、優先的にイランのアフガン難民キャンプを訪れ、そのような状況に置かれている女性や子どもたちを励ましたいと考えた。その際にファンタジーと共に[靴]を贈ることを思いついたのだ。
[靴]を選んだ理由の一つに、これまでの難民キャンプ訪問を通じて、この世界には「靴をはくことが当たり前の子ども」と「裸足でいることを余儀なくされている子ども」がいるという事実があった。
難民キャンプを囲む乾いた荒野は夏ともなると炎天下で熱くなり、冬は凍りつくような寒さになる。また難民キャンプにかかわらず、国境沿いの街でもたくさんの裸足の子どもたちに出会う。なかには裸足で歩いていてキズを負い、破傷風にかかって命を落とす子どももいるのだ。
しかし、単に「靴がはけなくてかわいそうだ」という理由だけではなかった。物資支援のなかで靴の支援が敬遠されている現実も理由の一つだ。食糧や薬、テントや古着といった大量支援が可能な物資とちがって、靴の場合は一人一人に向けて届けなければ意味がない。サイズや形など一人ずつの足に合わせなければならないからだ。
そういった非効率的な支援は手間がかかり、大きな機関の中ではどうしてもこぼれがちになる。できるだけ早く、できるだけ多くの支援を優先していけば、非効率的な物資は後回しになるのが現状だ。 しかし、だからこそ、わたしたちはこのように後回しにされがちなもの、こぼれがちなものを拾って、個々の手に届けていきたい、そう思ったのが事のはじまりだった。
こうして「靴支援募金キャンペーン」は、《ファンタジー劇場キャラバン》の一環として展開されていくことになった。
●数々の紆余曲折を経て……
キャンペーンは、「原爆の日」を控えた2004年7月30日、広島市の上映会を皮切りにはじまった。当初、目標額300万円、目標足数3000足を想定していたが、出だしは思わしくなく、募金はなかなか集まらない。しかも10月に予定していたイランの難民キャンプでの《ファンタジー劇場キャラバン》も延期となってしまった。
イラン側との交渉は、パキスタン人のスタッフを派遣して数ヶ月前から進められていたが、キャラバンは靴支援をする上での現地調査もかねるつもりでいたため、この段階で靴を贈ることは念頭になかった。
ところが、最終確認を進める中、難民キャンプを管理する政府機関から「靴支援としてまとまった足数の予算を整えるように」と要請されたのだ。物質的援助を整えなければ、ファンタジー映像の上映許可も出せないという。しかも、子どもたちの靴は用意された予算で彼ら側が準備するというではないか。《ファンタジー劇場キャラバン》の上映を二の次として捉えていること、物資ではなくお金を要求していること、この2つはLike Water Pressの基本理念に反する上、いままでの経験上、そのような経緯をたどって子どもたちに靴が届くかどうかも確信がもてなかった。いずれにせよ、難民キャンプの子どもたち全員に贈る靴の予算が当時あろうはずもなく、イランの難民キャンプへの訪問は断念せざるをえなかったのだ。



しかし、この躓きが靴支援の募金活動を急がせた。キャンペーンをアピールするため、東京および各地方の新聞社に告知や取材を依頼する一方、チラシを置いてもらうべく喫茶店、レストラン、書店、雑貨屋、NGOセンターなどを訪問してまわった。
こうして模索や手探りがつづくなか、2004年11月に東京版の朝日新聞に記事が掲載されたのを皮切りに大阪読売新聞、大阪朝日新聞、東京新聞など数社の新聞でキャンペーン活動が紹介された。これらの新聞記事を通して少しずつ支援金が寄せられるようになり、その募金が今回のキャラバンを実現させてくれたのはいうまでもない。
キャラバンの行程日数延べ20日、訪問地6カ所、上映回数14回、上映人数1431人、当初の目標3000足にはおよばなかったが、贈呈した足数は延べ1100足に達した。
今回はじめて多くの支援者に支えられて遂行したキャラバンを経て、《ファンタジー劇場キャラバン》が一団体の個人的な活動としてだけではなく、寄せられた多くの人の思いを代行し、願いを実現させる役目を新たに担いはじめた、という実感をわたしたちはかみしめている。


キャラバン日誌/3000の瞳に応える……


●アシアナ(ASCHIANA)について
カブールのNGO団体アシアナは2000年に設立された。代表者のモハマド・ユーソフ氏はタリバン政権時代、カナダに亡命していた1人だ。帰国後、彼はアフガニスタンの復興の在り方に数々の疑問を抱き、なかでも未来を担うべき子どもたちへの教育がおざなりにされていることを大きな問題と考えた。 復興政策といえば、ビルや道路の建設に多くの支援金が費やされ、子どもたちのためのものは後回し。このままではアフガニスタンは何も変わりえないと考え、アフガンの子どもたちのための組織に貢献することを決心したのだという。
アフガニスタンには長い戦争で父親を失った子どもたち、すなわち「ストリート・チルドレン」や「孤児」が多くいる。彼らは父親の代わりに食い扶持を得るために働かなければならないが、いわゆる公立学校には彼らを受け入れる体制が整っていない。しかも公立学校に通うにはお金が必要だ。 そこでユーソフ氏らは、そのような子どもたちの自立を支援するためのセンターを設立し、アフガニスタン国内に現在6つのセンターを運営する。そこには女子のための教育プロジェクトも含まれていた。



アシアナのプロジェクトはセンターにとどまらず、カブールに点在する帰還者キャンプの子どもたちにも実践されている。
6歳〜15歳の子どもたちを中心に、衛生教育をはじめ、地雷や交通に対する認識、読み書きや計算などの生活に最低限必要な教育を授ける一方、戦争によって消しがたいトラウマをかかえた子どもたちの心を克服させるための情緒教育プログラムを展開している。
もちろん授業料はない。カブール市街のセンターには美術や音楽のクラスが設けられ、多くの「ストリート・チルドレン」が絵や工作、歌やダンスを習っている。
絵を描くこと、音楽を奏でること、劇を演じること、それらを体験することで、子どもたちは感情を表現することを覚え、子どもたちが自分自身の閉じられた心の部分と接触することを可能にするという。



想像力と創造力が子どもたちを豊かにし、子どもたちに生きる手がかりと新生面(未来)を開かせることになり、ひいては、それがアフガニスタンの未来を開かせるのだ、とユーソフ氏らは確信している。 《ファンタジー劇場キャラバン》が、そのアシアナの信念に符号したのはいうまでもない。ユーソフ氏は帰還者キャンプの子どもたちへの上映と靴の贈呈に対して賛同を示し、そのための協力を惜しむことはなかった。
実際にカブールまで赴かなければ、ユーソフ氏やアシアナという存在に容易に辿りつけなかっただろう。各国のNGO常住職員総数約2000人を擁するカブールは国際都市としてにぎわうが、同時に莫大な支援金の偏った流れは貧富の差を増幅させてもいる。
その両面をヒシヒシと肌で感じる中、カブールで彼らのような仲間に出会えたことは、小さな組織で活動するわたしたちにとって大きな励ましと救いであった。


●2005年3月2日
 タミール・エ・セラット小学校
 (ペシャワール郊外/187人)
ペシャワール郊外にあるタミール・イ・セラット小学校で再上映を果たす。この学校では約1年前、わたしたちのファンタジー作品が上映された。わたしたちの再訪を聞きつけた校長先生が訪れ、こう申し出てくれたのだ。



………わたしの学校の子どもたちが、あなたたちと作品をいまでもよく覚えていて、あなたたちがまた来るのを楽しみにしています。
とくに『鳥と友だちになる方法』は彼らのお気に入りなんです。
飛び入りの上映だったが、子どもたちの記憶に残る楽しい時間になるならばとよろこんで再上映を引き受けた。上映したのは子どもたちお気に入りの『鳥と友だちになる方法』と、新たに『海を見たことがない少年』の2作品。約2年間に渡ってさまざまな場所で子どもたちに《ファンタジー劇場キャラバン》を巡演してきたが、このような再会と再演を果たすのはLike Water Pressにとっても初めてだ。ひょんなことから子どもたちと再会できたのもうれしかったが、何よりも作品に対する子どもたちの変化がうれしかった。初回のとき子どもたちは明かな戸惑いを見せたものだが、今回、物語を見る姿勢がみてとれたからだ。子どもたちは「見る=観る」ことを覚えてくれた。そのさま、子どもたちがひたすらよろこぶさまを見て胸がいっぱいになった。



●2005年3月5日(土曜日)
 ホグ・クール孤児院
 (アフガニスタン:ジャララバード/120人)
上映作品は『序章』、『シマウサギの冒険』、『海を見たことがない少年』の3つ。上映は靴の贈呈と兼ねて3回行われた。女の子の反応は男の子にくらべて控えめだが、真剣に見るその眼差しは同じだ。印象的だったのは年長の男の子が多い3回目、休日を共に過ごしてすかり親しんだ少年たちの顔もあり、ファンタジー映像を見つめるその眼差しと笑顔が眼にやきついた。



上映後、靴を受け取った子どもたちのほとんどが帰宅。孤児院に残った子どもたちが「デラデラマナナ(ありがとう)!」と何度も伝えてくる。それに応じてこちらも「デラデラマナナ!」を子どもたちに返すが、その自然で楽しいやり取りに、わたしたちの活動の原点をみるような気がした(詳しい報告は後記)。

●2005年3月8日(火曜日)
 カルガイ帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール/122人)
帰還者キャンプは元軍事基地の周辺に多い。戦争で集中攻撃を受けた官邸や軍事施設は現在も残されるが、それらの建物を帰還者の受け入れ先に政府が利用しているのだ。カルガイ帰還者キャンプも元は軍事訓練所として利用されていた。元軍事訓練所の建物、すなわち帰還者の住居となるビルの外壁はいたる所に銃痕が目立ち、崩されたコンクリートはむき出しのままだった。
キャンプには現在95の家族が暮らすが、元はチャマネバブラック(Chaman-E-Babrak )とよばれるキャンプでテント暮らしをしていたのを最近こちらに移動したのだという。
銃撃戦でダメージを受けた建物はただの「廃墟」としか言いようがなかったが、そこに暮らす戦争未亡人(彼女は5人の子どもをかかえている)曰く「以前のテント暮らしに比べると、ここは100倍いいよ」とほがらかに語っていた。



キャンプの敷地内にはアシアナのプログラムを実践するための2つの小さなテントがあった。男子用と女子用だ。午前(8:30〜11:00)と午後(12:00〜15:00)の2回、6歳〜15歳の子ども約150人(男子75人/女子75人)が学んでいる。その子どもたちに向けて2回の上映を行う。上映後、年齢もまちまちな男の子や女の子に囲まれ、「ありがとう」の言葉とともに握手を求められる。
このキャンプで最も印象的だったのは、女の子たちの積極性とたくましさだ。女の子たちがサッカーを楽しむ姿も他のキャンプでは見られないものだったし、女の子から「サッカーボールがほしいの」と伝えられたのもそうだ。女の子たちの好奇心と積極性を讃え、上映後、クリケット用具一式とサッカーボール一個をキャンプの子どもたちに贈った。

●2005年3月9日(水曜日)
 アシアナ・センター
 (アフガニスタン:カブール/542人)
センターには午前と午後のクラスに300人ずつ、計600人の孤児たちが通う。上映する子どもたちの数は最多の542人にのぼった。センター内に上映会場に格好の部屋(音楽教室)があったこと、男女同時に見せることをできたことで計4回の上映で収まった。
ここで驚かされたことは、子どもたちが「観る」ことを知っていたということだ。動物や森や海などの実写を観るときは興奮してガヤガヤするが、ナレーションがはじまる途端、その言葉に耳を傾けようとしてシーンとする。



いままでの上映ではついぞ体験したことのない子どもたちの反応に「これぞ観る姿勢だ」と思わされたほど。上映後、眼をキラキラさせて子どもたちが「ありがとう」を伝えにくる。彼らがわたしたちにとって最高の観客であったのはいうまでもない。カブールという土地柄、テレビをみる機会も多い。子どもたちはテレビを通して「観る」ことを知っているのだろう。なかには「インド映画みたいなものはないの?」という少年たちもいた。
上映の幕間、ユーソフ氏から映像のソフトの貸し出しについて問われる。他のセンターの子どもたちにも見せたいという。このような要望を受けたのは初めて。わたしたちの作品に対する子どもたちの反応を重視してくれたことがうれしかった。

●2005年3月10日(木曜日)
 ダルラマン帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール/240人)
ダルラマンも元軍事基地を利用したキャンプだ。敷地内の建物の破壊度からカルガイ・キャンプ以上に攻撃されたことがわかる。キャンプには現在176の家族が登録され、一家族あたり平均6人の子どもを持つ。実質1000人以上の子どもたちが暮らす計算だ。そのうち6歳〜15歳の子どもたち約400人が午前と午後の2回に分かれて学んでいる。



ここでは普段、敷地内の広場(空き地)が教室となるが、雨の日は住居用ビルの一階の広間に移される。広間といっても四方の壁は壊されたままで吹きさらし、内壁にはたくさんの銃痕が残され、ここで授業を受けるよりは、多少寒かろうが、日射しが強かろうが、外の野原で受けたいだろうなと痛感する。 住居用ビルには、外気や視線を遮断するカバーがまだ支給されていないのか、外壁がそっくりはがされたままの部屋もある。そこから子どもたちや女性がこちらを窺っているのが遠目にもわかった。ビルの裏手は洗濯物干場になっており、UNHCRが立てた簡易トイレが数個あった。しかし圧倒的に数が足りないのであろう、裏の広場のあちこちに排泄物の痕をみる。ここで見るもの感じるものすべてが、難民キャンプとはまた別の悲惨さ、荒廃ぶりを如実に物語っていた。



ここでは上映場所を新たに確保しなくてはならなかった。日射しの入る吹きさらしの広間は上映に適さないからだ。そこで業者に依頼して、外の空き地にテントが組み立てられた。
上映日の朝、渋滞にはまる。道路整備が不完全なカブールはいつも渋滞する。子どもたちは空き地で歌ったり遊んだりして、わたしたちを辛抱強く待っていてくれた。
予定より2時間遅れでようやく上映開始。しかしその日の快晴が上映に支障をきたした。用意したテントが薄く、日射しを遮断できない。そのためプロジェクターで映し出される映像がよくみえないのだ。さらに強い風がテントを揺らす。



ところが、そんな懸念をよそに子どもたちは映像を真剣に見入ってくれた。上映は男子と女子の2回。男の子の上映では、もっとよく見ようとして立ち膝をしたり、スクリーンに近づこうとするため全体的に前のめりになってしまう。それを見かねて先生が列を正させるが、やはりどうしても前のめりになる。その前のめりの動きは、子どもが映像に夢中になっていることを伝えていた。
上映後、空き地の野原で子どもたちと遊ぶ。少女たちが競い合ってわたしたちと手をつなぎたがり、なかなか手を離そうとしない。おそらく子どもたちにとって、わたしたちの存在もファンタジー作品同様「新しいもの」であり、好奇心を満たす対象として歓迎されたのだろう。

●2005年3月13日(日曜日)
 ワイセラバード帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール/220人)
比較的古いワイセラバード帰還者キャンプは前者の2つとは異なった形態で成り立っている。山に囲まれるカブールには丘陵に沿っていくつかの町が立つが、3年前、このワイセラバード地区にもキャンプがつくられた。
したがって、キャンプというよりは町の風情で、帰還者たちは「定住者」になりつつある。前者のキャンプにくらべると恵まれた状況にあり、ここでは学校の建設も進められていた。とはいえ、学校ができるまで高台の広場が子どもたちの教室だ。ここでは350人(男子180人/女子170人)の子どもたちが学んでいる。



上映は、この青空教室にテントを張って行われた。ここでは厚いテントを用意したため日射しは遮断できたが、今度は熱気で蒸した。しかしここでも、その蒸し暑さの中、子どもたちは熱心に映像を見入っていた。
上映後、アシアナの責任者の人たちが「子どもたちを幸せにしてくれてありがとう」と口 々に伝えてくれる。伝える当人も幸せそうだ。孤児院でもキャンプでも先生や大人たちが参加して一緒に楽しんでいるのをみるのはとてもうれしい。キャラバンをやってきてよかったと思わされることの一つだ。
ちなみにワイセラバードでは、かつて、あるNGOが子どもたちへの映画の上映を試みて失敗した経緯をもつ。その映画の内容が不適当とみなされ、帰還者=住民の反対により中止させられたのだ。イスラム教圏での上映ということで、内容については当初から細心を払ってきたが、それがキャラバンの実現の幅を広げてくれていることに改めて思い至った。
上映中の子どもたちの反応は、場所によって千差万別だが、今回のキャラバンではその特徴や違いが顕著にみられた。これはひとえに、わたしたち側に子どもたちを「見る」余裕が出てきたからかもしれない。


sweet homeという名の孤児院にて



ホグ・クール(Khoog Koor)は"Sweet Home"、すなわち「楽しい我が家」を意味する。パキスタンのNGO団体Al-khidmat Foundationの北西辺境州支部によって運営されている孤児院だ。ここには136名の子どもたちが通っている。
アフガニスタンでいわれる「孤児」は、日本で捉えられる意味とちがって父親を亡くした子どもたち全般をさす。
長いあいだ戦闘のつづいたアフガニスタンでは「孤児」の比率がとても高い。なかには戦争で両親とも亡くした子どももいるが、その多くは母親が生存する。しかし母親は外に出て働くことが許されないため、子どもを養えきれない。そこで子どもも家族の食い扶持を稼ぐため働かなければならないが、いわゆる公立学校ではそのような勤労児童を受け入れる体制がないのだ。その公立学校に代わって彼らを引き受ける施設が孤児院だと考えてもらえればいい。



よって孤児院といえども、子どもたちみんなが寄宿しているわけではない。その多くは帰る家があるため、家から孤児院の学校に通うというシステムになっているのだ。通うのが遠い子や、家庭の事情で帰れない子などが孤児院で寝泊まりすることになる。
それでも孤児院で生活したり、その学校に通える子はまだ恵まれているといえる。それだけアフガニスタンでは、学校や孤児院に引き受けてもらえない子どもが多いのだ。

ここホグ・クール孤児院でも平日は40人の子どもたちが寝泊まりするが、休日ともなれば、そのうち14人の少年だけが残る。
わたしたちが到着した夜、孤児院に残らなければならなかった子どもたちが余興を披露してくれるという。寸劇あり、歌あり、小咄あり、クイズあり、どれもユニークなものばかりだ。子どもたちと視線が合うと照れてすぐにそらすが、新しい訪問者がめずらしいのだろう、みんなクスクス笑って楽しげだ。そして、わたしたちの前で語り、演ずる子どもたちの表情のなんと生き生きしていることか。 この子どもたちは普段、孤児院の外に自由に出ることができない。治安上の問題が主な理由だ。行動範囲の狭い彼らはそれだけ享受する体験も刺激も少ないことになる。しかしその反動によって、彼らが突き動かされている面もあるのだ。狭いなりに、いや狭いからこそ、彼らは自身の想像力でさまざまな世界を創造することを覚えていっている。余興はその一つの証だ。
余興が一段落すると、子どもたちの生い立ちの話しになった。父親の死因をそれぞれ語ってもらう。交通事故や仕事場での事故で死んだ父親もいれば、難民キャンプでマラリアにかかって死んだ父親もいるが、そのほとんどが戦死したり、地雷にやられた。父親を亡くした経緯はさまざまだが、多くの少年は父親の姿を覚えているという。



翌日はアフガニスタンの休日。わたしたちは期せずして、子どもたちと一日を共に過ごすことになった。彼らの一日は早朝のお祈りからはじまる。その後に朝食だ。メニューはナン1枚と蜂蜜、そしてチャイ。
朝食後、わたしたちはジャララバードの市場(バザール)へ。靴の手配を整えて孤児院に戻ってみると、子どもたちがわたしたちの帰宅を待ちわびていた。一緒にクリケットとサッカーをやろうというのだ。 ひとしきり子どもたちと遊んだ後、庭で昼食。メニューは豆を煮たカレー、ライス、ナン1枚、チャイ、そしてわたしたちが子どもたちに買ってきたオレンジが1個ずつ。一緒に食べていると、子どもたちが我先にとナンやオレンジを照れながら差し出してくれる。

昼食後、子どもたちの部屋を見せてもらう。各部屋に5個の二段ベットがあり、1部屋に10人の子どもたちが寝起きしている。子どもたちの所持品はベットの下のブリキのトランクに収められていた。トランクは鍵付きで、中には教科書やノート、カバンや制服、歯ブラシと歯磨き粉、石けんなどがある。他にも靴や時計、ビー玉やスケッチブックなどさまざまだ。けれども、なかには配給されたものだけ、すなわちカバンと制服と歯磨きセットしか入っていないトランクもある。
なかに、フタを空けると一輪の造花のバラが飾られたトランクがあった。持ち主の少年がその花をこちらに差し出す。「君の大事なものだから」と受け取れないことを示すが、彼の意思は固く、受け取らざるをえなかった。
これらの小さなブリキのトランクに子どもたちの所有するすべてが入っている。いや、子どもたちの所有するものは、この小さなブリキのトランクに入っているものだけ、ともいえる。わたしたちはその大事なものをいとも簡単にもらってしまった。造花のバラに対して「ありがとう」しか返せなかったこともあり、わたしたちのファンタジー映像と靴がその少年への返礼に見合うものであればいいと願う。
子どもたちの部屋を見せながら校長のハルーンさんがこんなことを話してくれた。
「わたしもかつては孤児でした。
だから孤児のために何かをしたいのです」
彼の父親はムジャヒディンとして旧ソ連軍と闘っていたが、彼が10歳のときに戦死、次いで母親も爆撃で死亡。その後、長男である彼が弟や妹たちを養ってきたという。その生い立ちも影響したのだろう、彼自身もムジャヒディンとして闘った経験をもつ。
実際、彼の子どもたちへの眼差しは温かい。孤児院の子どもたちから父親のように慕われているのがよくわかる。ある少年は、死んだお父さんの面影を校長先生にたとえていた。



午後、子どもたちが再びクリケット・ゲームをはじめる。その喧噪を聞きながら、ふと、「あらかじめ奪われていること」とは何かに思いをはせた。
今朝のお祈りで子どもたちはわたしたちのことを祈ったという。みんなのことがとても好きだから自分たちと同じようにモスリムになってほしいと……。モスリムになれば幸せになれると信じる彼らにとって、それはわたしたちへの最大の好意に等しい。その好意は素直に受けとめられたが、同時に複雑さもあった。そこで子どもたちにこう伝えた。
「みんな、ありがとう。でも、これだけは知っていてほしいの。わたしたちはモスリムではないけれど、あなたたちと同じように世界でたった一つの存在だということを。何が起ころうと、どう生きようと、この世界でたった一つの存在に変わりはないの。だから、たとえモスリムでなくとも、わたしたちのことを祈っていて下さい」
校長先生はいう、「この孤児院にもたくさんの外国人の訪問者が来ました。米軍やNGOの人たちがね。しかし子どもたちが自ら祈った人はあなたたちが初めてなんです。これには驚きました。それだけ子どもたちはあなたたちが大好きで、ここに一緒にいてほしがっているし、また会いたがっているのです。あなたたちがモスリムになれば、その願いが少しでも現実に近づくと子どもたちは考えたんでしょう」と。



校長先生のかたわらで子どもたちがニコニコ笑ってわたしたちを見つめている。わたしたちは仲間同士、お互いに顔を見合わせた。それぞれの胸に去来したのはなんだったのか。一つはよろこび、一つは切なさ、一つは「信仰」という不透明な壁へのもどかしさ……。ほかにもまだ何かあるような気がしたが、言葉にはならなかった。

夜、わたしたちが庭に出ると、子どもたちが集まってきた。外はすでに暗く、空には星が輝いている。 スタッフの1人が母親であることを知ると、1人の少年が彼女にこう質問した。
「子どもたちを愛している?」
そんな質問を予期していなかった彼女はしばし考え、そして星空を指してこう答えた。
「ほら、星が見えるでしょ?
あの星の数ほど。数えられないほど」
子どもたちがいっせいに彼女の指先の上に輝く星空を見上げた。彼女の言葉を反芻するかのようにじっと星を見つめている。その顔は穏やかだけれど何かがよぎっていた。
そこに見えたのは、悲しみだったのだろうか?彼女はいう、あれは悲しみであり、そして悲しみではなかった、と。
……悲しみだけを抱いて生きてゆける人間はいない。



その夜更け、部屋の外から寝入る子どもたちを見つめる。まだ消灯されていないのでガラス越しに寝顔がよく見えた。
子ども特有の深い深い眠りにいるのがわかる。
あまりに深いので息を吐くたびに肩が大きく上下する。子どもたちの寝息がガラス越しにも聞こえてくるようだ。
ああ、なんという健やかな、無垢な眠り。
この2日間、たっぷり遊んだね、子どもたち。とても楽しかったね、子どもたち。
たっぷり、おやすみ。
いい夢を……。

アフガニスタンという国で「孤児」として生きる彼らの状況が厳しいことに変わりはない。しかし、それでも健やかにたくましく生きていてほしい。
いつか、彼らが銃をもつことを選ばされることがないような、銃を持つことを拒絶できるような未来が訪れてほしい。
どうか、あの子どもたちが、何者からも何事からも殺されませんように。
心の中で、わたしたちはつぶやいた。
………You kids,
   never be killed
   and never kill anyone....


アフガンの子どもたちに<靴>が届くまで


●靴の調達-----日本からの靴と現地の靴
靴を贈るにあたってもっとも懸念されたのが調達方法だ。高い輸送費を考えると予定の1000足を日本から運ぶことは不可能だ。そこで靴は現地で調達することになっていたが、現地の靴屋との交渉に際し、子ども靴のサイズや原価、1足分の重量などを日本であらかじめ調べておく必要があった。調査対象は5、6歳〜12、13歳の子どもの運動靴だ。その際、日本で靴を安く手に入れる方法も併せて問い合わせてみることにした。



問い合わせ先は、靴の問屋や安価な靴を販売する通販会社などだ。最初は簡単に考えていたが、実際は担当者に行き着かなかったり、親会社や別会社を紹介されたりなどして、なかなか情報を得られない。問い合わせをつづける中、ようやく辿りついたのが「月星化成」さんだった。
担当の方に事情を説明すると、わたしたちの情報に答えてくれるだけでなく、現在、会社の倉庫で保管されている返品分の子ども靴を破格の値段で売ってくれるという。わたしたちは、小さい子の靴を現地でそろえられない事態も予測してたため何足か日本から持ち運んでおく必要もあった。そこで千葉にある「月星化成」さんの倉庫に出向き、幼児用靴を中心に320足を購入。しかし靴はかさばる上に重量がかかる。今回はそのうち150足だけを持っていくことにした。
出発当日、懸念していた重量オーバーが現実となった。子ども靴150足分は3人分の重量制限を14sオーバーし、示された追加料金は約7万円にもなった。
これでは、できるだけ安く多くの靴を子どもたちにと奔走している意味がない。そこでパキスタン航空の管理者(パキスタン人)と交渉するが、「ここでオーバー・チャージの決定はできない。東京本社にかけあうように」との一点張り。粘りにねばって半額の金額を提示させるまでに至ったが、それでもわたしたちには大きな金額だ。
1箱は日本に置いていくしかないと諦めかけた矢先、パキスタンへ一人旅をする青年をみつけた。彼に事情を説明して、1箱分を彼の荷物として無事にパキスタンへ送ることができたのだった。
一方、アフガニスタンでの調達にあたっては値段の交渉が心配された。とくにカブールは各国から支援組織やNGOが集まるため国際都市(International City)の側面をもつ。しかし経済や治安は一向に定まらず、そのあおりで物価の高騰が激しい。つまり現在のカブールではなにもかもが高いのだ。そのカブールで、わたしたちは最も多くの足数を必要としていた。
当初は靴の調達をパキスタンのペシャワールで済ませ、車に積んで国境を越えることも考えた。しかし子どもたちの足のサイズを正確に把握していないこと、さほど値段が安くないこと、遠路カブールまで1000足を運ぶことの不便さなどを理由に断念、現地の靴屋での調達を決めたのだった。
ジャララバードとカブールではそれぞれの靴屋と交渉の末、予算内でまかなえる安値で決定。現地の靴屋が男子用・女子用の靴を各サイズそろえて上映地に運び込み、そこで一人ひとりの子どもの足に合った靴を手渡すという、念願の[移動靴屋(Mobile Shoes Shop)]がここに実現した。



●メッセージ・カードについて
メッセージ・カードは、広島市の上映会で出会った一人の女性の発案によりはじまった。「ヒロシマ市民からアフガンの子どもたちへ、靴とともにメッセージを贈ろう」という彼女のよびかけにより1000枚以上のカードが出発前に届けられた。カードはすべて手書き、表裏一枚一枚にメッセージと楽しい絵が描かれ、色とりどりのリボンが結ばれてあった。「このカードを受け取る子どもはさぞかしうれしいだろうな」と思いをはせてこちらもうれしくなってくる、そんな心の詰まった楽しいカードだ。



そのうち1000枚は発案者の女性の手書きによる。その事を知らされたパキスタン人スタッフは「こんな人がいるとは信じられない」と感心しきりだ。
わたしたちの活動は彼女のような一人一人の存在によって活かされている。言葉を換えれば、世界中にいるたくさんの彼女に出会うために、この活動はつづけられているともいえる。その一枚一枚のカードはアフガンの子どもたちのみならず、靴を届けるわたしたちにも勇気を与えてくれたのだ。
ヒロシマ市民から送られてきたカードは1114枚、ほかに今年卒業を迎えた京都市立蜂ケ岡中学校の生徒たちから126枚のカードが届けられた。これらのメッセージ・カードはいま、靴や楽しい記憶とともにアフガンの子どもたちのもとにある。
●靴を届けて……



難民キャンプとちがって、訪れた帰還者キャンプや孤児院の子どもたちは靴を履いていた。しかしブカブカだったり、古いものだったり、その子のためのものではないことは明らかだ。サンダル履きの子が多く目につく。そこには「子どもたちは靴を履いていた。しかし子どもたちのものではなかった」という現実があった。
支援物資・配給物資の多くは十把ひとかけらで配られる。子どもたち一人一人を見ている余裕などないからだ。それが当たり前になっている子ども、すなわち自分のために何かをしてもらったことのない子どもが、「あなたの足にあった靴を贈ります」といわれても最初はよく理解できなかったにちがいない。
しかし足を測られることに最初は戸惑う表情をしていた子どもも、それが「自分のために何かをしてくれていることではないか」と思いいたるや、その眼差しにかすかな高揚と興奮を帯びてくるのだ。 おそらくその理解によってであろう、足の測定のときも、靴の受け取りも、子どもたちがしっかり順番を守ってくれたため、心配していた混乱もほとんどなく、現場の先生や管理者たちも驚いていた。 子どもたちの変化とよろこばしさを見るにつけ、一人ひとりの足を測りながら靴を贈ることがいかに大切かを実感した。足に合った靴を履く、それはわたしたちにとって極当たり前のことだが、その子たちにとっては初めての体験なのだ。それがどれだけ幸せなことか。
あらためて「靴」はいいものだ、と思った。いや、足を測って贈る「靴」がいいのだ。
サイズを測るとき、子どもたちに靴を何足か履かせてみなければならない。そのとき自分から靴を履こうとする子、履かしてもらうのを手伝ってもらう子、そして履かされるがままの子がいた。なかには足を見せたがらない子もいる。
ほとんどの子が裸足のため、靴に足を上手くすべらせられないことがある。そこで履かせる側と履く側双方の押し込む力が必要になるが、そんなとき、履かされるがままの子にはよくこう言ったものだ。
「ねぇ、自分でも履いてみようよ!」
かける言葉は日本語だ。やさしい言い方ではなかったはずだ。次々と測っていかなければ追いつかない中、通訳をする先生たちも他の応対で手一杯だ。足のサイズの確認はときに片言のダリ語(ペルシャ語)と日本語でやるしかない。あとはジェスチャーだ。最初子どもたちはキョトンとするが、「自分で履く」という意味はどうにか伝わるようで、ぎごちない動作でようやく靴を履こうとするのだった。
また靴を履かせるとき、子どもたちが重心を支えるためにわたしたちの肩に手を添える。ごく自然に、立って靴を履くときに誰でもそうするように。その小さな手が肩にのせられるとき、温かいエキスが身体の中を走った。その手の感触やぬくもりが、わたしたちと世界の間にくすぶりつづけている矛盾や疑問を凌駕し、計り知れない亀裂や距離を少しでも縮めてくれたような気がしてならない。
はじめての靴支援の現場で確認できたのは、[靴]は手と足から子どもたちに触れ合えるコミュニケーションの在り方を教えてくれたということだ。[靴]はいろいろな意味を持つ。その[靴]をアフガンの子どもたちに届けられてよかった、心からそう思う。
●2005年3月5日(土曜日)
 ホグ・クール孤児院
 (アフガニスタン:ジャララバード120足)
初めての靴の贈呈。上映を終えた子どもたちを1階の部屋に移し、3人ずつサイズを測る。最初は女の子だ。日本で調達した靴をならべ、そこから好きなデザインを選ばせることにした。入室するや女の子たちの視線は色あざやかな日本製の靴にいくが、手に取るのは別に用意した女子の学生用靴だ。日本からのものはサイズが小さいこともあるが、校長先生曰く「いちばん最初に選んだ子の靴に他の子が合わせてしまったのでは」とのこと。女の子の場合、みんなと同じものがほしいという意識がより強いようだ。
2回目の上映の最中、依頼した靴屋が到着。男の子たちには黒か茶色の学生靴が用意される。途中からサイズが不足しはじめ、約半数の男の子たちは翌日の受け取りとなる。なかには靴屋が用意した子ども靴では対応できず、大人用の靴を用意しなければならない子どももいた。歳でいえば13、14。アフガン人の足は大きいのだ。当然、大人用靴は値段も多少高くなる。それがいったい何足必要となるのか、一瞬わたしたちが身構えたのはいうまでもない。



すべての上映と靴の贈呈を終えたとき、ある議論が生じた。欠席者16人の靴の贈呈についてだ。翌朝早くカブールに向けて発たなければならず、その子どもたちの足に合った靴を手渡すことができない。お金だけ校長先生に託していくかどうかで意見が分かれたのだ。
一つは「子どもたちは何かの事情で学校に来れない場合もある。ほかの子どもたちが持っているのに、その子どもたちだけ靴やカードを持てないのは不憫だ」という意見。
もう一つは「今日の上映と靴の贈呈は以前からわかっていたこと。事情があって休んだにしろ、靴を受け取れなかったにしろ、そのような運・不運を彼らが知ることも大切なのだ。同情だけで決めるのはいけない」というもの。
かたや「わたしたちの支援には制限がある。それを考慮してファンタジーを見た子どもたちに靴を渡すというのがLike Water Pressの原則だったはず。今回は16人という少ない人数のため欠席者に渡すという発想を持てるかもしれないが、これが100人、200人といわれたときどうするのか? 実際の子どもの人数も、実際に子どもたちに靴が届くかどうかも確認する手立てがないなか、そういった事態を避けるための原則ではなかったか。人数の少なさ・多さではなく、ここはあくまで原則にのとって判断すべきだ」というもの。いずれも情に訴え、理に叶い、筋が通っている。同時にスタッフのだれもがこの「原則」と「現場」の間に立たされ、混乱していた。
実際、このはざまには多くの困難や矛盾が生じるが、それもまた自然といえば自然のことなのだった。そして、この議論に終止符を打ち、混乱を収めたのは次の言葉だった。
……子どもたちに何を届けるにしろ、眼と眼をみて、手から手へ渡したい。
  別の誰かによってではなく、わたしたちの眼と手で。
  子どもたちとモノの間に介在すること。
  コミュニケーションなしの贈り物はしたくない。
現場で新たに確認されたわたしたちの原則は「手から手へ」。手渡しが原則、今後コミュニケーションなしの物資支援はしないということで全員の意見が一致、欠席した子どもたちへの靴の贈呈は見送ることになった。
●2005年3月9日(水曜日)
 カルガイ帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール300足)
カブールで調達する靴は、市街の靴屋アルコザイ・ショップ(Alkozai Shoes Shop)に依頼した。男子用・女子用の靴を数点選び、必要足数をそろえてキャンプに運んでもらうことに。
ここカブールでは[移動靴屋(Mobile Shoe Shop)]の本義が最大限発揮されることになる。靴屋から派遣された店員は大わらわだったが、このシステムにより、わたしたちの方針に添った靴の手渡しが可能になり、スムーズな進行を実現させたのだ。



カブールでの靴の贈呈は、カルガイ帰還者キャンプからはじまった。テント2つに男女別の測定コーナーを設け、メッセージ・カードとサイズ表(小さな紙切れに名前とサイズを記したもの)を子どもたちに手渡す。子どもたちはそれを持って外で待機するバンまで行き、サイズ表と交換に靴を受け取る寸法だ。
他のキャンプにくらべ帰還者数が少ないカルガイ・キャンプではもう一つ方針を加えた。「一家族につき一つの靴を渡す」というものだ。キャンプには小さい子どももたくさんいる。その子どもたちの母親が直接受け取りに来た場合のみ、日本からもってきた幼児用の靴を一足ずつ渡すことにしたのだ。
子どもたちの測定と贈呈が済んだ頃ポツリポツリと幾人かの母親が集まり、小さな靴を思い思いに選び、持ち帰っていった。
翌日、靴の不足分をキャンプに届けると、母親の持ち帰った靴をはいて歩く幼い子どもたちを眼にした。「月星化成」さんの倉庫にあった靴だ。ヨチヨチ歩くその足もとを見て、「月星化成」さんとの出会いからの長い道のりをかみしめた。雨上がりの泥土に汚れて新品のおもかげは跡形もないが、こうして靴が子どもたちのものになっていることがとてもうれしい。
その小さな靴を眼で追いかけていると、ワゴン車の窓を叩く音がする。見ると、数人の子どもたちが「タシャックル(ありがとう)!」といって笑顔をよこしてきた。その足もとにも新品の靴が誇らしげに輝いていた。
●2005年3月12日(水曜日)
 ダルラマン帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール300足)
ダルラマン帰還者キャンプはスタッフ全員で望んだ初の贈呈場所となった。足の測定は雨の日の「教室」となる一階の広間で行われた。ここでは両サイドに男の子・女の子の測定コーナーを設け、2人ずつ測定した。
測定を終えた子どもたちはカルガイと同じようにメッセージ・カードとサイズ表を受け取り、広間の入口で待機する靴屋にサイズ表を渡す。そこで自分の靴を受け取るのだ。

カルガイ・キャンプで実践した「一家族につき一つの靴」をどこかで聞きつけたのか、あるいは自発的なものなのか、幼子を連れて「この子にも靴を」とねだる父親が次々に現れる。足を測定中の上、靴の数にも限りがあるため、現場の先生の判断で優先的に靴が必要とされる子どもたちを連れてきてもらう。その子どもたちに付きそうのは、ほとんどが父親だ。なかには自分の靴をくれという父親もいる。
また渡された靴を持って「サイズが合わない」と訴えにくる子どもも出てきた。実際に足のサイズが合わないとわかった子には応えられたが、そのすべての要望を聞くことはできなかった。それが事実なのか、大人に指図されてのことかがよくわからないからだ。
一方、広間の隅に積んであった靴を盗んで脱兎のごとく逃げる少年がいた。それを見とがめてほかの少年たちが後を追いかけるが、見失ってしまう。「あれは大人の悪知恵でやっているんだ」という現地の人の言葉を聞き、暗澹たる気分になる。
それでも無事に贈呈を終え、在庫数を確認したところ6足分が足りないという。靴はその気になれば誰もが手の届く場所に積まれていた。ということは、靴屋の見ていないところで他に6足も盗まれたことになる。
いままでこのような経験はなかったのであろう、「やっていく自信がない」と訴える靴屋をどうにかなだめ、次なる[移動靴屋]があわや立ち消えるのを防ぐことができた。

●2005年3月14日(月曜日)
 ワイセラバード帰還者キャンプ
 (アフガニスタン:カブール350足)
キャラバン最後の靴の贈呈。ワイセラバードでは建設中の学校の教室が贈呈場所となる。男子・女子とも別の教室で待機しており、よばれた順に足の測定を受ける。
ここでは両足とも義足の少年がいた。測定する椅子に座れないので、スタッフが靴を持って義足に合わせる。靴を受け取るときの少年のうれしそうな顔を見て、「あぁ、靴をいらない人などいないのだな」という思いが胸をかすめる。
贈呈を終え、女の子たちの待機する部屋をのぞくと、口々にダリ語の「タシャックル」と日本語の「ありがとう」が連発された。子どもたちの感謝の言葉と心が、どうか、みなさんにも伝わりますように。


出会った子どもたち


●エルタマスという名の少女→
カルガイ帰還者キャンプでひときわ異彩を放つ少女がいた。名前はエルタマス、歳は13。女子を率いてサッカーをするのも、年下の子を引導するのも、ファンタジー映像をじっと見つめるのも、靴の贈呈を手伝うのも、どの姿をとっても独特の存在感があった。周囲を常に観察する眼、話すときにこちらを真っ直ぐ見つめる眼、笑うときに美しく輝く眼、よく動くその眼差しは、エルタマスの意志の強さと利発さを伝えていた。わたしたちはその利発さと行動力を買って、カルガイ帰還者キャンプのみならず、他のキャンプでの靴の贈呈の手伝いをエルタマスに申し出た。



エルタマスがカブールに戻ってきたのは3年前、2001年のことだ。8歳のときにタリバン政権から逃れ、家族とともにパキスタンのペシャワールで3年間を過ごした。10歳のときに父親と長兄が内戦で死亡、現在は母親と姉妹3人、弟1人の6人で帰還者キャンプで暮らしている。
わたしたちはエルタマスの家族にも会った。夫の死後、ペシャワールにいたときは母親が裁縫で生計を立てていたが、カブールではその手立てもなく、建設現場での日雇い労働でわずかな賃金を稼いでいるという。
夫と息子をあいついで戦争で失い、女手一つで5人の子どもを育ててきたなかには語り尽くせない苦しみと悲しみがあったはずだ。しかし彼女は嘆いていなかった。与えられた現実をよりよくしようという発想をもつ、ユーモアをかねそなえた賢い女性だ。
帰還者キャンプの一室をあてがわれた家族の住居はすきま風の入る小さな部屋だったが、それでも精一杯きれいに整えようとする母親の意志が伝わってきた。
劣悪ともいえる帰還者キャンプのなかで、自分の体験と叡智を信じ、子どもたちを誇りとする母親がいる。そして、その母親をみながら育つ子どもたちがいる。エルタマスとその家族に出会えたことは、わたしたちにとっても大きな体験となった。

エルタマスの将来の夢は歴史の先生だ。世界で何が起こっているのか、世界のあらゆるものを見てみたいという。わたしたちは、彼女の夢を現実にしたいと願わずにはいられなかった。エルタマスのように豊かな感性と知的好奇心をもつ子どもたちに、彼らの夢の実現を手伝うこともLike Water Pressの目的ではないかと考えるに至り、わたしたちはエルタマスの通学に必要な教育費(約300USドル)を母親に申し出た。母親がよろこんだのはいうまでもなく、当面、学校に通える一年間の教育費をアシアナに委任、教育面・生活面を含めた彼女のサポートを依頼した。
別れる間際、エルタマスにアフガニスタンの歴史の本を贈った。「今度会うときにあなたの国の歴史を教えてね」と伝えると、ニッコリ微笑んで約束してくれた。
世界にはたくさんのエルタマスがいる。彼らに出会う最初の一歩がエルタマスの存在だったことを考えれば、これは、いわば「エルタマス基金」ともいえるLike Water Pressの新しい活動のはじまりでもある。
こうして、思わぬ出会いから、わたしたちは小さな仲間を新しく迎えたのだった。



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