◆2005年6月17日〜7月1日


●はじめに
わたしたちは、去る6月17日〜7月1日の2週間、アフガニスタンのカブールを中心に、2005年度第2回目[ファンタジー劇場キャラバン]を実施しました。延べ850人の子どもたちにファンタジー映像を、420人の子どもたちにドキュメンタリー映像を上映し、併せて800足の靴と220個の女子用通学カバン、そして72冊の絵本を贈呈してきました。
いま、その報告をするにあたって、まず強調しておきたいことがあります。それは、このキャラバンがわたしたちの活動を見つめ直す旅になったということです。
今回は、わたしたちのファンタジー作品の上映対象としての子どもたちの年齢が、これまでのキャラバンのうちで最も高いものとなったのですが、その新たな層の子どもたちとの出会いが、わたしたちにさまざまな戸惑いと同時に、さまざまな発見を与えてくれたのでした。
子どもたちの日常の考え方や関心事、また子どもたちを育むべき大人(先生)の現実など、いまだ多くの問題を抱えているように見えるアフガニスタン社会の現実にあらためて直面するなかで、わたしたちの活動自体を見直す必要性を痛感したのです。
アフガニスタンという国は一つの迷宮のようです。分け入れば入るほど混乱してくるというのが、あらためて痛感させられた事実でした。純粋さと狡猾さ、無邪気さと残酷さ、繊細さと愚鈍さ、生真面目さと横柄さ……。ここでは矛盾が矛盾でなくなり、二律背反が日常のこととして存在しているのです。そして新しい発見が必ずしも喜びではなく、ときに人を不安にもさせるのだ、という事実。
しかし、一度、二律背反に係わってしまった者は、そういう不安と向き合うことでしか前へ進めません。そういう意味で、期待と不安が常に伴う [ファンタジー劇場キャラバン]はLike Water Pressの在り方、ひいてはわたしたち個々の在り方を知る旅であり、確認の旅でもある、と思わずにはいられません。今回の「水的通信」は、その一つ一つを拾いながら綴った、わたしたちの旅の日誌になっています。
最後に、前回まで使われた「帰還者」という言葉を、今回から「国内難民」(Internal Displaced People)と表記することを付記しておきます。帰還した自国内で再度難民化せざるをえない貧しい人々に対して、亡命先から帰還する裕福な人々と区別するためです。


カブールまでの道程


●2005年6月17日(FRI)
午後2時、パキスタン航空853便に乗って成田空港を発つ。日本からのメンバーは陳、加藤、辻の3名。靴200足も一緒だ。
今回運んでいく靴は段ボールにして3箱分、前回と同様に「東京月星」から購入したものだ。重量オーバーの追加料金を心配していたが、チェック・イン・カウンターに入る前に、イスラマバードに向かう日本人女性がわたしたちの状況を察して、同行者として一緒にチェック・インしてくれた。そのおかげで追加料金を課されることなく、200足の靴も無事、通過することができた。
成田からパキスタンのイスラマバードまでのフライトは約11時間、うち2時間は経由地の北京で待機を余儀なくされる。
午後9時過ぎ、予定通りイスラマバード国際空港に到着。
外はムッとする蒸し暑さだが、11時間ぶりの外気と陸の踏み心地にホッとする。入国審査と荷物検査を終えて、到着ロビーへ。
パキスタン・スタッフのシュエイブ(Shoaib)と、一足先に到着していたギリシアから参加した仲間のコスタス(Kostas)を加えて、今回のキャラバンのメンバーが合流した。再会の挨拶もそこそこに、メンバー一同、一路ペシャワールへ向かう。約3時間のドライブだ。
この道はカブールに続いているのだ、と誰かがいう。
今回、そこでわたしたちを待ち受けているものは何か?
こうして、2005年2回目のキャラバンがいよいよはじまる。




●2005年6月18日(SAT)
約2カ月ぶりにペシャワルを訪れる。ペシャワルは人口約350万人、パキスタン北西部のアフガニスタンと国境を接する北西辺境州の州都だ。州のほぼ中央に位置し、有名なトライバル・エリアに隣接している。ペシャワル近郊にはいまでも多くのアフガン難民キャンプがある。
ここは、わたしたちがアフガニスタンへ陸路で入るときに必ず立ち寄る経由地だ。カブールへ入る準備のためにここで一日を費やすのが常となる。一つは、国境の町トルハムに至るまでに通過しなければならないトライバル・エリアの通行許可書を北西辺境州政府からもらうため、そしてもう一つは帰国便の再確認(リコンファーム)をするためだ。
トライバル・エリアとは文字通り「部族自治地域」をさす。パキスタンに属すが、その地域はパキスタンとアフガニスタンとの間のブラックホールのようなもので、大部分はパキスタン政府管轄外におかれている。パシュトゥン人のテリトリーとして一種の治外法権的な扱いを受ける地域であるため、とりわけ外国人の勝手な出入りは赦されない。通行許可書を得た上、アフガニスタンの国境まで治安警察の配する護衛を同乗させなければならない。
ペシャワルの街に出ると、いつもの砂埃に加え、強い日射しが容赦なく照りつけてくる。埃と暑さで息苦しいほどだ。
北西辺境州政府のトライバル・エリア(部族自治地域)省、パキスタン航空事務所、市場などを、昼食をはさんで回る。
市場ではアイスボックスなど、夏の長距離ドライブに必要なものを購入する一方、Like Water Pressが前回のキャラバンで初めて通学の支援をすることになったエルタマスへのプレゼントを選ぶ。
エルタマスはカブールの国内難民キャンプに暮らす13歳の少女だ。学校に通いはじめたエルタマスのために赤い通学用リュックと定規のセット、そして筆箱を購入する。
ペシャワルでは1泊を要する。宿泊先は、前回に引き続きアルキドマト・ファウンデーション(Al-khidmat Foundation)のペシャワル支部のゲストハウスだ。
アルキドマト・ファウンデーションは、先の3月に上映と靴の贈呈を行ったジャララバードの孤児院も運営しているNGOである。2003年に来訪して以来、ここへはもう何度もやってきた。わたしたちを出迎えてくれる顔もすっかり顔なじみだ。彼らへの好意に対する感謝の気持ちを込めて、ジャララバードの孤児院やカブールの国内難民キャンプでの活動風景を収めたドキュメンタリー映像を事務所にて上映する。彼らにとって馴染みある場所ということもあるのだろう、映像を熱心に見つめていた。
しかし今回、ここでは悲しい知らせがわたしたちを待っていた。スタッフの一人が銃殺されたというのだ。
彼の名前はカムラハン。まだ弱冠23歳の青年だった。去年、結婚したばかりで1歳になる赤ん坊もいる。前回のキャラバンで立ち寄ったわたしたちがペシャワルを発ったわずか3日後に、銃に撃たれたのだ。夜中、仕事でいつも訪れる村へ行った帰り道であったという。犯人はまだつかまっていない。 実際、いまだに彼の死が実感できない。わずか2カ月前、カムラハンは生きていた。
ペシャワルでの最後の夜、スタッフのみんなと夜の遊園地へ気晴らしに出かけたが、そのときカムラハンも一緒にわたしたちと笑い声をあげていたのだ。スピードが出る乗り物を子どものように怖がっていたカムラハン、自分の臆病さに照れて頬を染めてはにかんでいたカムラハンの顔をいまでも覚えている。
彼の死を伝える仲間たちは、死そのものに大きな動揺を覚えても、銃殺という事実は冷静に受けとめているようだった。日常的な銃による一つの死、わたしたちとは明らかに違う社会の在り方がここにはある。

●2005年6月19日(SUN)
午前8時、いよいよカブールに向けて出発。銃を携帯する治安警察の護衛を乗せて、トライバル・エリアの難所、カイバル峠を越える。自動車はアルキドマト・ファウンデーションのものだ。
ちなみにカイバル峠を近代史のなかで有名にしたのは、英国だ。インド・パキスタンを属領としていた英国は、かねてから南下をはじめたロシアを阻むために、アフガニスタンを抑えておく必要があった。そのためパキスタンからカイバル峠を越え、三回にわたってアフガニスタンへの侵入を試みたのである。
しかし、英国はこのカイバル峠で悲劇的な敗北を喫すことになる。第1次アフガン戦争でカブールまで進出した英国軍は、結局カブールからの撤退を余儀なくされ、カイバル峠まで敗退してきた。1864年1月のことだ。そして、雪深いその懸崖に待ち伏せしていたアフガン兵によって、4,500人の英国軍と12,000人の軍属(現地調達の兵士)は、すべて倒されるか捕えられるかして、逃げのびることができたのはわずか1名に過ぎなかったという。
それから第2次アフガン戦争を経て、英国はカイバル小銃隊をここに配置し、国境を警備させた。いまでも、そのカイバル小銃隊が使用していたトーチカがカイバル峠の懸崖のあちこちに見える。いわばゲリラ戦の痕だ。
カイバル小銃隊に徴用されたのは、カイバル峠一帯に住んでいたパタン人(パシュトゥン人)だった。彼らは誇り高き山岳民族で、必ずしも英国人に従わず、時には英国と戦火をまじえることもあったという。英国は3次にわたってアフガニスタンへ侵攻したが、こうしてついにアフガニスタンを制圧することはできなかった。
トライバル・エリアはそのような戦いの歴史を内包する場所なのだ。
カイバル峠の道中には美しい小さな村落が点在する。しかし、ビデオカメラを向けると、同行の護衛によって制止された。トライバル・エリアでは一切の撮影が禁止されている。撮影を禁止することで何を守ろうとしているのだろうか。民族の誇りか、伝統か、または外部に知られたくない何かの秘密だろうか……。



途中、わたしたちを乗せた自動車はランディコータル村に立ち寄る。そこにはアルキドマト・ファウンデーションが運営している病院があった。その病院が抱えている最も緊急な問題は女性の医師の不在だという。「この村にきてくれる女医がいない」と村の長老らしい人がいう。男の医師が女性の患者を診察することは赦されないのだ。
「この村には学校がありますか?」とスタッフの一人が尋ねた。
「もちろん。最近は、女の子も学校へきています」と長老がいう。
「それはよかった。では、あと10年待てばいいではありませんか。その女の子たちにちゃんと教育させれば、この村から女医が生まれるでしょうから」
午前10時30分に国境の町トルハムに到着。ここで出入国審査を受け、アフガニスタンの車に乗り換えてから一路カブールへと向かう。時間が立つとともに、照りつける日射しも増してくる。ペシャワルから陸路を目指すため暑さも緩くなるだろうという推測はただの楽観でしかなかった。
トルハムを過ぎると、路肩で野菜や果物が売られている光景を多く目にする。この時季、スイカが旬のようだ。楕円形の薄緑色のスイカが高く積み上げられ、その背景にスイカ畑がみえる。出発してからずっと水ばかりを胃に入れていたこともあって、スイカがことさら美味しそうだ。路肩のスイカ屋を何度か通り過ぎた後、とうとう車を止めてスイカを食べる。スイカ畑を見やりながらほおばる、そのスイカの美味しかったこと!
生ぬるさも気にならない。これで丸々1個、日本円で約50円だという。スイカをほおばるわたしたちを面白そうに見つめる子どもたちにスイカを差し出すが、食べ飽きているのだろうか、どの子も首を横に振って断る。その後もスイカを食べる機会は何度もあったが、この路肩のスイカほどわたしたちを喜ばせ、活気づけてくれたものはない。



午後1時30分、ジャララバードに昼食に立ち寄る。ここからカブールまでは西南に150キロほどだ。ようやく半分の距離まで来たともいえるが、ここから先が長い。幹線道路はいたるところ整備中だが、その大部分はまだ未舗装で、車が大きく揺れる。車が走ると舞い立つ砂埃もあいかわらずだ。たしかに前回に比べると舗装されている部分が増えてはいるが、コンクリートで舗装された道は熱を照り返し、その上を走るのは別の忍従が必要となった。
一方、道沿いを走るカブール川の水流に圧倒される。山の雪解けによるものだろう。川沿いの道を進むと、たくさんの車が立ち往生している。これも毎回みる恒例の「渋滞」だ。川沿いの道が狭いにもかかわらず、強引に分け入るためにトラックが別のトラックにつかえて道をふさいでしまうのだ。そのつかえが解かれるまで気長に待っていなければならない。
運転手はもちろん、同乗者の多くもそのほとんどが男性だ。手持ちぶさたの男たちは車から出て時間をつぶすが、まもなく、わたしたちの車は男性陣に囲まれることになる。顔を覆わない東洋の女性の顔が珍しい、という理由によるのだろう。
最初の頃こそ、そのあからさまな視線から顔を覆い隠したりしたものだが、いまではその眼差しをしっかり見返すことがある。怒っているような険しい顔、しかし、その眼差しに敵意はない。その証拠に、こちらから笑顔を送ると彼らも微笑み返してくる。そして何よりも見入ってしまうのは、その瞳だ。そこには何かしらの強い表情が読みとれる。奇妙な、冷酷な、哀しいともいえるような底なしの瞳。 しかし、この突き刺すような眼差しは何によって発せられるのだろう?
単なる異邦人への好奇心からなのか、イスラム教の禁忌によって抑えつけられた女性への恐怖心や欲望からなのか、それともいわゆる文明国ではないゆえの「無垢さ」なのか……、その食い入るような強い眼差し、底なしの瞳を見ていると、フッといままで出会ってきた子どもたちの眼差しに重なった。



無事に道が開通しドライブをつづけるうち、一つの光景が目に入ってきた。
犬による地雷探査の訓練だ。2人の指導員に2匹の犬が並べられた小石を縫って進んでいる。しばらく、その様子を眺める。そのとき、だれかがふと呟いた。
「地雷を発見したとき、この犬たちが真っ先に死ぬのだろうか?」
かつて聞いた話しではカンボジアでポルポト政権が台頭していたとき、ゲリラたちが森の地雷を避けるために村の子どもたちを先に歩かせたという。そこに犬はいなかったのか? だから子どもを使ったのか?「われわれ」を守るという大義を前に、なぜ人間は他者に対してこんなにも恐ろしく残酷になれるのか? なんという悪意だろう!
そこには犬と子ども、どちらの命も価値はないかのようだ。
しかし、それにも増して気が滅入るのは、あの一匹の地雷探査犬が、どれほどの地雷を見つけられるか、という問いだ。この地上にはおよそ2億個以上の地雷が埋蔵されているという。その地雷に対して、探査犬を訓練して一個一個と地雷を探し続けることの気の遠くなる営み。その途方もない営為にめまいをおぼえる。
すっかり日も暮れ、大きな断崖絶壁がつづくマイパール(Mi Per)の夜道を抜ける。
長いドライブを経てカブールに到着したのは午後9時。外気にようやく涼気が帯びてきた。


カブールでの日々


●2005年6月20日(MON)
カブールでは、前回に続いてアフガニスタンのNGOアシアナ(ASCHIANA)の協力を仰ぐ。
その打ち合わせのため中心街にあるアシアナ・センターを訪れるが、その様子が以前と違う。子どもたちの姿がなく、中庭の木々は切られている。工事中のようだ。
代表のユーソフ氏に尋ねると、移転を余儀なくされているらしい。ここがアフガン政府の用地で、彼らが別の用途を見いだしたため立ち退き勧告を受けたのだという。政府による別の用途とは何か?  ストリート・チルドレンや孤児のための施設を追いやるのだから、子どもたちのための建造物でないことはたしかだろう。
すでにセンターは別の場所に移しており、子どもたちはそこへ通っているという。あとは事務所の移転を残すのみだが、新しいセンターが狭いため、別に事務所をかまえなくてはいけないらしい。 現在、カブールには2500団体のNGOが登録されており、うち350団体がアフガン人によるものだ。 その一つであるアシアナは恵まれない子どもたちを支援するNGOとしてアフガニスタンでは広く知れ渡っている。しかし運営費用を捻出するのはここでも同じように大きな課題だ。それまでの月々の地代も施設の維持費も決して安いものではない。しかし、それは政府の関知するところではないのだろう。ユーソフ氏曰く、現在までにアフガニスタン政府によって無償で何かを提供された経験は皆無だという。
では、どこから支援金を得るのか? 1995年に設立して以来、アシアナではその運営を国外の支援団体に頼ってきた。いくつかの団体から支援されているが、大きなところではヨーロピアン・コミッション、セイブ・ザ・チルドレン、ナショナルジオグラフィックなどだ。アシアナ独自の調査によれば、2004年時点でカブールには60,000人のストリート・チルドレンがいるという。アシアナが扱っているのは、そのうちの約10,000万人だ。少ない数ではない。またカブールにおけるストリート・チルドレンの増加には次のような要因があるという。



1:地雷の被害に5年前から干ばつの被害者が 加わり、農業を営めなくなった地方生活者がカブールに職を求めて集まる
2:戦争の終焉を迎え、国外から戻る帰還者の増加
3:戦争未亡人と戦争孤児の増加
4:カブールの土地代が高騰する一方、収入が低落するため、親が子どもたちを働きに出 す傾向の増加

そして、これらの要因からすれば、カブールのストリート・チルドレンが今後、増えることはあっても、減る可能性はまず考えられない。
アシアナでは [ファンタジー劇場キャラバン]の上映場所と人数の確認をとる。今回の訪問地はドキュメンタリー映像の再上映とファンタジー作品の初上映という2種類に分けられた。
再上映地はカルガイ・キャンプ(Karg Hai Camp)とダルラマン・キャンプ(Darulaman Camp)の2箇所。ともに旧軍事施設を利用した国内難民の暮らすキャンプだ。この2つのキャンプは塀に囲まれているため、野外でのナイトショーを試みようと、その夜はカルガイ・キャンプでの上映が決まった。
初上映地は、カブール市内とカブール郊外パルワン州にあるアシアナの教育センター3箇所、そしてアフガン政府の運営する青少年矯正施設(Rehabilitation Center for law conflicted children)を推薦される。新しく出会う子どもたちは約1000人、年齢は10歳〜20歳とかなり幅ひろい。
一方、プレゼントは再上映地には絵本、初上映地には靴が用意された。しかし初上映地の子どもたちの年齢層が高いため、アシアナの運営する女子教育センターでは通学にも使える女子用カバンを用意することに。前回交渉したアルコゼイ靴店で、靴1000足と通学用カバン220個の手配を頼む。

アルコゼイ靴店での打ち合わせの後、カブールの雑誌社TKMG(The Killid Media Group)を訪れる。TKMGはアフガニスタンの無党派のメディアグループで、雑誌の他にラジオ局を所有する。刊行しているのは週刊誌の"Killid Weekly"と季刊誌の"Mursal"だ。



今回、わたしたちはカブールで一つの試みをすることに決めていた。マスコミへのアプローチである。Like Water Pressの活動をアフガニスタンの人々に知ってもらい、[ファンタジー劇場キャラバン]の申し込みを受けつけたい旨を告知するのだ。
交渉の結果、わたしたちの記事は翌土曜日(25日)に刊行される"Killid Weekly"(Killidは「鍵」を意味する)に紹介されることになった。両開き2ページ。作成した文章を落とし込み、担当のデザイナーと打ち合わせした後、印刷にかかるという。

午後7時30分、初のナイトショーのためにカルガイ・キャンプに向かう。このキャンプにはエルタマスも暮らしている。しかし渋滞によって大幅に遅れ、到着したのは8時30分を回ってしまった。上映をはじめるには遅すぎる時間だ。
キャンプはとっぷりと闇に包まれ、そこにほのかに光の漏れるテントが一つ。そこで迎えられた子どもたちの歓迎ぶりは忘れられない。彼らはわたしたちを鮮明に強く覚えていた。「ブヂャ!ブヂャ!」と代表の名前を連呼する声、子どもたちの割れんばかりの拍手と歓声。歓喜もあらわに迎え入れる子どもたちの中には、懐かしいエルタマスの笑顔もある。わたしたちの再訪をどんなに楽しみにしてくれていたことか。そのひたむきささに胸がゆさぶられる思いだ。
この子どもたちの中に楽しい記憶として存在するわたしたち自身と作品、それこそがLike Water Pressたる意義なのだから。
遅れたお詫びと再会の喜びを子どもたちに伝えると同時に、ナイトショーを明晩に延期することを伝える。
「明日また会おうね」という言葉に子どもたちの顔が輝く。また会えるという喜びが、上映が延期になったことの残念さをも凌駕させたようだ。



●2005年6月21日(TUE)
終日、カルガイ・キャンプで過ごす。
まずは、女の子たちへのインタビューからはじまった。前回このキャンプで幽霊を描いた女の子たちのために、その幽霊を一枚ずつ印刷した絵葉書を日本から持参していた。そのなかで印象的な幽霊を描いた子どもたちをインタビューをするのだ。
全部で13人の子どもにインタビューしたが、そのうち実際に幽霊を見たというのが3人もいた。なかには、一度きりでなく何度も見たという子もいる。だが、それらのほとんどが3年前に帰還してきたばかりの頃、このカルガイ・キャンプに移る前に暮らしていたチャマネバブラックのキャンプで見たという。おそらく彼女たちが最も不安だった時期に重なる。その恐れや不安が幽霊のかたちとなって、彼女たちの目や脳裏に掠ったのかもしれない。
他のほとんどの子どもたちは、幽霊を「夢で見た」という。どこかで耳にはさんだ幽霊のうわさ話しが日常の中の恐れや不安も手伝って一つのイメージとして夢の中に顕れた可能性が高い。しかし、どの子も幽霊を語るその様は明るく、淡々としている。幽霊が恐ろしいものとして語られないのが印象的だった。この子どもたちにとって幽霊はどんな存在なのだろう? インタビューを終えたいまでも謎のままだ。



インタビューの最中、他の子どもたちにはシャボン玉遊びが待っていた。ストローを何本か用意して順番にシャボン玉をつくらせようとするが、興奮した子どもたちは聞く耳をもたない。注意したり怒ったりしても、われ先にと手をのばしてくるため、子どもたちに囲まれて身動きが取れない始末だ。それだけ子どもたちはシャボン玉に夢中になった。夢中になるのはシャボン玉に限らない。美しいもの、楽しいものであれば、子どもたちは何にでも触れたがるものだ。
今回プレゼントとして贈呈した絵本にしてもそうだ。わたしたちが日本から持参した絵本は72冊、カルガイ・キャンプとダルラマン・キャンプに36冊ずつ贈呈した。



鮮やかな色づかいやユニークな工夫が施されたものなど、英語の絵本を中心に揃えたものだが、子どもたちはとても喜んだ。女の子は動物が主人公の絵本、男の子は迷路の絵本に釘付けだ。言葉がわからなくても、子どもたちは絵を見ながら熱心に物語を創っていく。絵本は現地で作ったLike Water Pressのロゴ入りのブリキの箱に収められ、「絵本文庫」としてそれぞれのキャンプで管理してもらうことになった。


昼食後、エルタマスの家族を訪問。エルタマスのお母さんも姉妹弟も、みな元気だ。姉2人と弟は以前から学校に通わせていたが、エルタマスが学校へ通うことになったため、妹も通学させはじめたという。
現在、アシアナで把握しているカルガイ・キャンプの子どもたちは180人。そのうち何人かはエルタマスのように近所の学校へ通っている。通学時間は片道30分、午前・午後・夕方の3つのシフトが組まれていて、エルタマスと妹は午前、弟は午後から通学する。
エルタマスの家ではみな学校に通わせてもらっているが、余裕はないので通学に必要な備品にお金はかけられない。古いものを使い続けるしかないが、それを恥ずかしがって学校に行きたがらないこともあるという。そのため、今朝もエルタマスのお姉さんの1人が学校へ行くのを嫌がったそうだが、もちろん母親はそれを許さなかった。



それとは別の深刻な問題もある。民族間の問題だ。たとえばエルタマスの弟のクラスでは、担任の先生が自分と同じ民族の生徒をえこひいきし、他の民族出身の子をないがしろにするというのだ。アフガニスタンの主要民族はパシュトゥン族、次いでイラン系のタジク族、次に多いモンゴル系のハザラ族となっている。他にもウズベク族 、ファルシーワーン族、キジルバーシ族、モンゴール族、トルコマン族、キルギス族、パミール族 、バルーチ族、ブラフイ族、ヌーリスタン族、コーヒスタニー族、グジャル族、アラブ族。加えて非イスラム教のヒンドゥー族、シーク族、ユダヤ族といった具合だ。 言語や宗派はもとより、慣習も違う民族が長い歴史を経ていまのアフガニスタンに暮らすのだ。これだけの民族がひしめきあっていれば反対に差別意識も緩和されそうなものだが、形成している人口の割合も偏っているため、いまだに日常生活に差別が根づいているのは否めない。しかし、この民族問題はアフガニスタンにかぎらず世界共通の問題だ。
それにしても、エルタマスのお姉さんのファルザナの話に、わたしたちは大いに勇気づけられた。現在17歳の彼女は女医になるのが夢だ。しかも外科医だ。そのためには大学に通った後、インターンの実地体験を含めて25歳まで勉強しなければという。
まず、学資の問題がある。もちろん、母子家庭で、いま暮らしているキャンプからいつ追い出されるかわからない状況を彼らが知らないわけではない。それでも決して諦めないとファルザナは笑顔で答える。
もう一つに結婚の問題がある。アフガン人の結婚適齢期は早い。女の子のほとんどが早く結婚をしなければならないと思い込んでいる状況のなか、ファルザナは結婚などしたくないという。もし結婚するとしても医者になってからだ、と言い切る。母親も同意見だ。
彼女のような女性がアフガニスタンにどのくらいの割合でいるのかわからないが、そういう考えをする女の子に出会えたことが、とても喜ばしかった。


午後6時30分、野外でナイトショーの準備をはじめる。集まった子どもたちは約180人。日が沈むまで子どもたちに余興を披露してもらう。多くの子どもたちが歌いたがる。1人で歌う子、グループになって歌う子、歌の代わりに小咄を披露する子など、自己主張することを臆さない子が多い。とくに女の子に多いのが印象的だ。
子どもたちの後方にはいつのまにか大勢の男性も座ってわたしたちの上映を待っている。
午後7時過ぎ、上映を開始。はじめに次の言葉を子どもたちに伝えた。



みなさん、こんばんは!
わたしたちは、しばしば、あなたたちを思い出しました。
いま、こうしてあなたたちに再会できてとても幸せです。
今回、わたしたちはファンタジー作品ではなく、
あなたたちに関するドキュメンタリーを持ってきました。
みなさんは、前回、幽霊の絵を描いてくれたのを覚えていますか?
わたしたちは、あなたたちの描いた幽霊に強い印象を受けました。
そのため、その幽霊やあなたたちについての映像を作ったのです。
この映像ではあなた自身やあなたの友だちを見つけることができますよ。
では、わたしたちのナイトショーを楽しんで下さい!




満月の光に照らされながらのナイトショーは大成功だった。子どもたちのみならず、大人も大いに楽しんだようだ。映像に映るカブールの街並みやキャンプの様子、自分や友だちの姿、そして自分の描いた幽霊。それらすべてに狂喜乱舞して喜んだのだ。ファンタジー作品をじっと見つめるのとは別の喜びようだ。ここに生きる人々は、子どもであれ、大人であれ、自分たちを見てほしがっているのかもしれないと思わせるものがあった。
一方、初めてのナイトショーで見えてくる問題点もあった。上映中にもかかわらず、親が家の手伝いをさせるために呼びにくるため、途中で席を立たなければならない子どもたちもいたのだ。しかし、わたしたちには親の行動を制止する術も、また制止する正当な理由も持ち得なかった。その子どもたちは、子どもである前に一家の働き手でもあるのだ。
上映後、暗闇の中、子どもたちは散るように帰っていく。そのうちの何人かがこちらの手や胴をしっかりつかんで「行かないで」と追いすがってきた。その力の強さと必死さにうろたえるほどだ。その手を払うのは切ないが、払わないわけにはいかない。「また来るね」という言葉で子どもたちがようやく諦めた頃、後片付けも終了し、わたしたちの車も闇の中を、宿へと急いだ。

●2005年6月22日(WED)
アシアナの教育センター(ASCHIANA CENTER No.3)での上映日。場所はシャシュダラック(Shash Darak)だ。センターには約400人の女の子と約200人の男の子が通い、その多くは国内難民の子どもたちやストリート・チルドレンだ。なかには家庭の事情で学校に通えない子やトラウマを抱えて情緒不安定な子どももいる。それらの子どもたち約400人にファンタジー作品を上映する。



子どもたちのファンタジーを見つめる姿は模範的だが、途中、無言で席を立ち、また戻ってくる子どもがいる。猛暑に加え、窓を閉め切った部屋は蒸し風呂状態のため、水を飲みに出ているのだ。1人が出て行けば、それに倣う子どもたちが出てくる。出たり入ったりの繰り返しの中、他の子どもたちの集中力も途切れるため、午後の上映では5分間の休憩をはさむことにしなければならないほどだった。
このセンターに通う子どもたちは、国内難民キャンプで暮らす子どもたちとは明らかに様子を異にしている。いわゆる「都会っ子」だ。着ている服や履いている靴も比較的小ぎれいで、そのたたずまいにもどこか都会的なものがある。よくいえばマイペース、悪くいえば自分勝手というところか。
といっても、子どもたちが上映中に勝手に動くのには理由がある。先生が子どもと一緒にファンタジーを見ないのだ。これまでのキャラバンで、上映中に責任者(大人)が立ち会わないのは初めてのケースだ。子どもたちとその体験を共有する意識を先生がもたないせいだろう。「先生」というのはあくまでも職業であり、職業意識として子どもを見ることはあるだろうが、子どもが何を見るかには関心がないように思えるのだ。
思えば、わたしたちは、いわゆる職業としての「先生」にそれまで会ったことがないのだ。国内外の難民キャンプで子どもたちが学ぶ施設のほとんどが「学校」ではなかった。「学校」と呼ばれてはいたが、地域の子どもたちを支援するための自治施設に近いものだ。
ところが、ここカブールの市内ではアシアナという、いわば私的な組織によって運営されている「センター」でさえ「学校」という公的な施設としての性格を帯びざるをえなくなり、そこに「先生」という名の職員として雇われている者がでてくる。そういう、都市ならではの「先生」に、わたしたちは初めて会ったのだ。
上映は午前と午後に2回ずつ、計4回行われた。その合間の昼休みにTKMGのラジオ放送の取材を受ける。ダリ語→英語→日本語での質問を受け、日本語→英語→ダリ語で回答するというややこしい質疑応答が約20分つづく。放送日が決定され次第、連絡してくれることになっていたが、放送は取材当日に行われたらしい。しかし、そのことを後になって知ったわたしたちは、結局、誰もそれを聞くことができなかった。
ちなみに取材も昼食も校長室の中で行なわれた。その間、校長先生や数人の先生たちは、室内のテレビに映し出されるインドの歌謡番組に夢中だった。

午後6時、ダルラマン・キャンプに到着。 カルガイ・キャンプに続いて野外でのナイトショーを行う。ここでも子どもたちの熱烈な歓迎を受ける。キャンプに入るや、あっという間に車は子どもたちに囲まれ、たくさんの歓声と握手に迎えられる。そこでは約240人もの子どもたちがわたしたちを待っていた。



上映の準備をする間、プレゼントの「絵本文庫」から数冊の絵本を子どもたちに紹介する。カルガイのときと同じように子どもたちの眼は生き生きとした喜びに輝き、ページを一枚一枚めくるたびに盛んな拍手が起きる。
日没を迎え、上映開始。子どもたちが喜んだのはいうまでもないが、そこにはカルガイの子どもたち以上の激しさがあった。その興奮の度合いの高さは何を物語っているのか? カルガイよりも人数が多いというだけの理由ではないようだ。
ダルラマンにはカルガイの3倍もの収容者がいることもあって、一種独特の荒廃した雰囲気がただよっている。前回、靴の測定が行われたときに6足ほどの靴が盗難にあったのも、このキャンプだ。
そういう意味で、子どもにも大人にも一触即発の危険性がはらんでいるようにもみえる。夜の上映ということもあって、わたしたちは用心すると同時に間違いがないようにするための心得を事前に話し合ったものだ。しかし、結果はすべて杞憂だった。
はっきり言って、ダルラマンの人々の生活環境はカルガイよりも悲惨だ。悲惨な状況で単調な毎日を送る者にとって、何が辛いかといえば「変化がないこと」にちがいない。だからこそ外からの刺激には敏感に反応する。変化を求めるのはそれだけ彼らの日常が悲惨だからだ。悲惨さの度合いに比例して、わたしたちの存在を求める度合いも深くなるのではないか……。一時は「危険だから」と夜の野外上映を取り止めようという意見も出たが、前回のキャラバンのときの子どもたちの眼の輝きを信じることをわたしたちは選んだ。そして、子どもたちはわたしたちの期待と確信を裏切らなかった。わたしたち、こどもたち、双方の姿勢を、いま、あらためて誇りに思う。この事実は、Like Water Pressの在り方を強く再認識させる強烈さがあった。

●2005年6月23日(THU)
上映に引き続き、シャシュダラックのセンターで靴の贈呈を行う。その手伝いをしてもらうため、途中、エルタマスをカルガイ・キャンプで拾う。前日の上映には400人ほどだった子どもたちが、この日は550人以上もセンターで待機していた。



贈呈の開始は午前10時、終了は午後1時、約3時間を要した。足を測定する部屋に数人ずつ誘導するが、それまで子どもたちは暑い日射しの下で待っていなければならない。待っている子どものなかにはしびれを切らして「早くしてくれ」と訴える者も出てくる。そもそも、この日射しの下に延々と子どもたちを待たせる理由はどこにもない。ある程度、単位を区切って、順番が来るまで子どもたちを教室で待機させればいいのだが、そういう配慮を示す先生(責任者)がいないのだ。
いままでの経験上、子どもたちのたたずまいはその場を仕切る大人たちの態度に比例する。子どもたちに心配りや愛情を示す大人がいる場所では子どもたちも穏やかだ。反面、ここのように子どものことに無関心な大人がいる場所では、子どもたちに身勝手さと落ち着きのなさが顕れる。それだけ大人の態度は子どもたちに確実に反映するのだ。
しかし、靴の贈呈で最も気になったのは、子どもたちとの間のコミュニケーションの欠如だった。前日の上映では、子どもたちとの間にあるコミュニケーションを感じたのだが、その空気が消えていることに気づいたのだ。受け取る子どもたちの素っ気なさに、かつて味わった配給的なものを感じる。なかにはオシャレな靴がないと不満をもらす子もいて、よく見れば、その子をはじめ、真新しい、いい靴を履いている子どもが数人いるのだ。
ここでは、わたしたちのファンタジーはともかく、靴が必要とされているわけでないことを痛感する。[ファンタジー劇場キャラバン]は彼らのプラスアルファの欲望を満たすためのプロジェクトではない。ファンタジーも靴も本当に必要な子どもたちに届けなければいけないのだ。そのことを事前に確認すべきだったことを深く反省する。次回キャラバンからは、わたしたち本来の目的に照らし合わせた事前の確認が必要なのはいうまでもない。

●2005年6月24日(FRI)
アフガニスタンの休日。イスラム教では金曜日が休息日となる。この日はカブールに点在する廃墟、主に戦争時に爆撃されて取り残されたままのビルの撮影に費やすことになった。
朝と夕刻、カブールを一望するタペ・マランジャン(Tapeh Maranjan)の丘を訪れる。この丘の上にはナディル王(Nadir Shah)の霊廟が立つ。ナディル王はアフガン最後の王ザヒール・シャー(Zaheer Shah)の父親の墓だ。戦争や干ばつで彼らと彼らの土地が破壊されるまでは、ここは絶好の市民のピクニック・ポイントだった。かつて、休日ともなれば、ここには緑豊かなカブールを眺めながら憩う人々がいたのだ。
時計の針が正午を指す頃、カブールでは日射しの強さが容赦なく襲ってくる。太陽が真上にあるため影がなくなり、ひどい乾燥とあい時計の針が正午を指す頃、カブールでは日射しの強さが容赦なく襲ってくる。太陽が真上にあるため影がなくなり、ひどい乾燥とあいまって息苦しいほどだ。その強烈な日射しの中、わたしたちの車は廃墟を求めてカブールの街をさまよう。カブールは通称、新カブール(new Kabul)と旧カブール(old Kabul)に分けられる。明確な境界線はないが、目印として建設中のビルが多い中心街が新カブール、爆撃された廃墟が多く残されている地区が旧カブールと考えていいようだ。つまり、わたしたちは旧カブール界隈をさまよっているのだ。靄がかかっているような砂埃と熱気のなか、遠景の廃墟がまるで蜃気楼のようだ。



旧カブールの撮影の後、市場で働く少年たちの姿を再びカメラに収める。夏のため、水売りの少年が多い。客引きをするたくましさも、カメラの前で屈託なくポーズをとる姿もあいかわらずだ。
川沿いの露地を一通り歩いてから、バラ・ヒサールの砦(Fort Bara Hisar)に向かう。ここは何世紀もの間、アフガニスタンの指導者の城があったところだが、第2次イギリス・アフガン戦争中に破壊されたという。この砦に登って、カブールの日没を撮影したいと考えていたが、軍が管理しているため、砦の上からの撮影は許可されなかった。仕方なく再びタペ・マランジャンの丘へ向かう。朝の静けさと打ってかわって、凧揚げに集まる人々でにぎわっていた。



●2005年6月25日(SAT)
アシアナがパルワン州で運営する青少年教育センターでの上映日。代表のユーソフ氏の案内でカブールを北上する。パルワン州まで片道約2時間の道程だ。靴の贈呈もかねるためアルコゼイ靴店からも1名、同行する。
このセンターの正式名称は"Demobilization and Reintegration Center for War Effected Children"、日本語に訳せば「戦争後遺症を抱えた子どものための克服・再生センター」というところだろうか。このセンターに通う子どもたちは約200人、孤児、元少年兵、そこでは、基本的な読み書きや計算の他に、手工芸や裁縫、メークアップ技術といった実践的プログラムが行われている。一種の職業訓練所のようなものだ。



そこに通う少年たち、といっても、そのほとんどが青年とよんでいい年格好だ。平均年齢は男女ともに14歳〜17歳ほど。最年長は22歳だという。まず懸念されたのは、はたしてわたしたちのファンタジー作品が彼らに通用するだろうかということだ。明らかにわたしたちのファンタジーは彼らの年齢や精神状態に向けて創られたものではないからだ。
上映は男女別に2回、まずは男子からはじまった。上映場所はセンターの中庭に掘られた防空壕のような細長い穴蔵だ。青年たちの前で挨拶するとき、思いのほか素直な反応をみせてくれる。予想以上に好意的だ。実際の年齢に比べて精神年齢はかなり幼いのだろう。ただ、その幼さは無知や粗野にも結びつく。その一つに、上映中、煙草を吸い出す少年がいた。煙草はすぐに消させたが、その少年のようにここにいる彼らの多くが、何かを「観る」という経験がないのだろう、集中力がすぐに途切れてしまうようだった。
観る習慣がないのは女子も同じだ。上映中、出入口付近で数人の女の子が出たり入ったりする。しかし興味がないわけではないらしい。その証拠にソワソワしながらも最後まで見つづけ、その中には最初から最後まで真剣に映像をみつめている子どももいた。



センターには6〜7名の先生が勤めるが、ここでも子どもたちと一緒に見る先生はいなかった。子どもたちの前で何か行われるのか、といったことは別段気にならないようなのだ。それは、先生たち自身に観る習慣がないからかもしれない。たまに顔を覗かせるかと思えば、用事を言いつけたりなどして、むしろ子どもたちの観賞を邪魔している向きさえあった。
とはいえ、上映が終わった後、「ありがとう」を伝えにくる少年たちもいた。積極的に後片付け手伝ってくれる少年もいる。そういう少年たちにとって「夢の糧」とは何か?
わたしたちはこれまで、基本的に「児童」を主体として「夢の糧」を考え、「ファンタジー」を製作してきた。しかし今回のキャラバンで、アフガニスタンでは「児童」のみならず、「少年」あるいは「若者」に与えるべき「夢の糧」も必要ではないかと思わせられた。そういう新しい「ファンタジー」作品を早急に用意しなければならない、とあらためて実感させられたのだった。
ところで、体型も大人並みの彼らには大人靴を用意するしかない。大人用の靴は倍の予算がかかるため、予算内で収まる必需品を靴の代わりに贈ることにした。農村地帯のパルワンでは情報がほとんど得られないため、男子にはトランジスター・ラジオを、女子には文具ないしはメークアップ教室で使う化粧品を贈ることになった。その分の予算を寄付という形でユーソフ氏に託す。


帰り道、パルワンの村、ダシト・オピアン村(Dasht Opeyan Village)に寄る。
200人の農民が暮らすのどかな村だ。一面に畑が広がり、野菜や果物の実がなっている。畑の隅にゴザが敷かれ、サクランボ、すいか、桑の実、もぎたてのキュウリなどが次々にふるまわれる。戦争前はアフガニスタンの村のあちこちで、こんなのどかな光景が見られたのだろう。しばし憩った後、一軒の民家に案内される。民家の前にロシア軍の爆撃で破壊された建物がそのまま残されていた。その空爆で一家の主も亡くなったという。手つかずのまま残された瓦礫を前に、十数年以上も放置させておくことを不思議に思った。



村を出て一路カブールを目指す。道中には朽ちた戦車、白(撤去)と赤(未撤去)が半々に残される地雷原、「ここは地雷が撤去されている」という土壁一面に記された白地の文字や矢印などが至る所にみえる。



途中、撮影のために車を止めているところへ羊飼いの少年2人が近づき、何かをしきりに訴えてくる。ユーソフ氏曰く、彼らはクチ(遊牧民)の少年たちで、戦時中からこの一帯で遊牧生活をしていたが、帰還してきた元の住民たちから追い出しを食っているという。ここを追い出されたら、彼らの暮らす場所は安否の不確かな地雷原しか残されていない。しばらくして少年たちは草をはむ羊たちのもとへ戻っていったが、そこでさえ確実に安全な場所とはいえないという。行く場所がなければ、彼らは地雷原で暮らすことを選ばざるをえないかもしれない。地雷に当たるか、当たらないか、彼らに残されているのは一か八かの賭けしかないのだろうか。
「よそ者(他者)を愛せ」という言葉を思う。
この世界で実践するには、なんと難しい言葉だろう!

●2005年6月26日(SUN)
アシアナ女子教育センター(ASCHIANA Girls Education Center)での上映のため、コートサンギ(Kote Sengi)に向かう。ここは女子教育の向上を目的にアシアナがナショナル・ジオグラフィックの支援を受けて運営している施設だ。
220人の生徒の年齢層は13歳〜22歳。外の世界の女性は珍しいのだろう、わたしたちに強い好奇心をみせる。男性の目もないため、女の子たちは自由に聞きたい質問をぶつけてくる。年齢や結婚、家族ついての話題が中心だ。こちらの年齢や、結婚願望がない旨を伝えると一様に驚く。
上映は2回、場所は2階の広間だ。子どもたちの帰宅時間も考慮に入れなければならないため、初回の上映を終えた子からカバンを階下で贈ることにした。校長先生が名簿順で名前を呼びあげていく。その中にはファンタジーを観賞している子どもたちもいた。カバンをもらうことに熱心でファンタジー観賞そっちのけで席を立ってしまう子どももいるが、なかには子どもたちを呼びにくる先生もいる。もちろん途中で制止したが、これは子どもたちの観賞を大人が邪魔しているとしかいいようがない。 しかし、ここで、はたと思った。似たような経験はシャシュダラックでもパルワンでもあった。今回の上映場所すべてに通じる現象だ。ここでは多くの大人が「観るマナー」を知らないのだ。先生といっても、彼ら自身が何も知らない可能性は大きい。彼らもまた子どもたちに劣らずナイーヴなのだ。25年以上もの戦争が続いた国では、創造的な経験をすることもなかったであろう。外の世界の出来事を垣間見る機会さえなかったはずだ。極端にいえば、戦争しか知らない大人が多いのだ。
彼らのナイーヴさを示すもう一つの例は、先生たちが自分のプレゼントを待っているという事実だ。「ところでわたしたちのプレゼントはないのですか?」と聞かれたとき、むしろその無邪気さに驚かされた。たしかに彼らの給料は少ない。買えないものもきっとたくさんあるのだろう。だから何気なく聞いてしまうのだ。



そこで、わたしたちは一つの結論を得た。いままでは子どもたちにファンタジーを見せることだけを考えてきたが、今後は先生にも最初に見てもらうべきだ、ということだ。
子どもたちに最も大きな影響力を持つ大人は多くの場合、先生だ。その先生にも子どもと同じように接しなくてはいけないのではないか? という思いを抱かされたからだ。
彼らはこんなにも何も知らない。まるで子どもたちと同じだ。そんな彼らに子どもたちの夢を育んであげたいという気持ちや、「先生」としての誇りをもたせるためのサポートは一体だれがするのだろうか? そこに思い至ったとき、子どもたちの夢や誇りを培うための糧になればとささやかな贈り物を用意してきたように、先生へのプレゼントも考慮に入れていく必要があるのではないか? これは今後の一つの課題として考えなければならないだろう。
ところで、先生たちの無邪気な問いかけと違って、現場の責任者(大人)からお金や物を要請されたことはいままでにもあった。アフガンの子どもたちに接触したいならば、現場の大人たちの要望をできるだけ叶えてやること、それは彼らへのリスペクト(尊敬)にもつながるのだともいわれたものだ。しかし、もしアフガンの人々の考えるリスペクト(尊敬)が、彼らの欲しがるものを与えることにあるならば、わたしたちの選ぶ道は一つしかない。それをリスペクト(尊敬)とみなすアフガニスタンでは一切活動できない、ということだけだ。しかし、わたしたちは知っている。アフガンの人々すべてがそうではないことを。いままで多くの場所で上映してきたが、その中で真剣にアフガンの子どもたちと未来を考えている人々にも出会ってきた。他ならない彼らとの出会いが、わたしたちにそう信じさせるのだ。


午後3時、今回最後の上映場所となる青少年リハビリセンターに到着する。アシアナがサポートする、アフガン政府の法務省の管轄下にある青少年矯正施設だ。ここには窃盗、売春、麻薬常習、殺人などによって法的措置を取られた48人の子どもたち(男子40人、女子8人)が収容されている。彼らが社会に出たときのことを考慮し、施設内の撮影は一切禁止だ。外部者の入室も制限されているため、ここでは前もって教えてもらった足のサイズに合わせた靴を人数分だけ持参することにした。
最初に面会した責任者の法務省の担当官の女性が不在なため、子どもたちのカウンセラーに当たっているUNの職員が応対する。特殊な施設のため、上映は男子寮・女子寮それぞれの棟で2回に分けて行うことになった。女子が先行だ。
女の子たちは部屋に設置されたテレビでインドの歌謡番組を見ていた。テレビを中断させて上映を開始するが、1話目が終わった頃、子どもたちが他のものを見せてと言いだす。「インド映画みたいなものが見たい」という。カウンセラーの人には上映を続けてくれと頼まれるが、それが難しいのは誰の目にも明らかだ。男の子たちにも確認をとってみるが、ファンタジーに興味はないようだ。そこで上映を切り上げ、約束した靴48足だけを置いて引き上げることにした。
彼らが欲しいのはもっと刺激的なものだ。
そもそも矯正システムによって運営されている施設に、わたしたちのファンタジーを持っていくこと自体、妥当ではなかったのかもしれない。「戦争や闘争のほか、ほとんど何も知らないまま生きてきた子どもたちに、ほんの少しでも新しい世界を感じてほしい」というユーソフ氏や担当官の願いはよくわかる。そのための試みでもあったわけが、残念なことに、いまのわたしたちにはそういう子どもや若者たちに対し得る用意がまだないのだ。彼らに見せるべき作品を用意していないのだ。
では、環境や場所、性別や年齢に関係なく、見せることのできる作品とは何か?
今後、どんな作品をつくって、だれに見せていくのか?
そもそもファンタジーとは何か?
ここでもまた、わたしたちの作品そのものについて考えさせられた。原点に立ち戻されたようなものだ。そして、それはわたしたちの新しい「ファンタジー」作品の出発点でもある。

●2005年6月27日(MON)



午前と午後、エルタマスの学校生活を見学する。
教室で授業を受けるエルタマス。その中で知るエルタマスについての新しい発見が楽しい。キャンプでは大きく見えたが、同年配の子どもたちの中では小柄だということ。学校で友だちが1人できたこと。気が強い割にはシャイなこと。お料理はできないけれど、お手伝いはきちんとすること。なかなかのオシャレさんであること。成績がクラス45人中8位だということ。13課目のうち好きな課目は歴史、科学、ダリ語(国語)だということ。英語を勉強したいけれど必須科目ではないこと。「学校に通えて幸せ」と思う一方、期待していたほどの場所ではないと秘かに感じてもいること、などなど。
エルタマスのことをもっと知るために英語の教材をプレゼントする。英語が必須科目でないため、1人でも学習できるようにと街の本屋で買ったものだ。エルタマスが少しでも英語を話せるようになれば、わたしたちのコミュニケーションの幅も広がることだろう。

エルタマスを追う合間にキャンプの子どもたちに靴を贈る。前回届けた靴がすでにくたびれはじめていたため、小さい子どもたちにだけ日本から持参した「東京月星」の靴を渡すことにしたのだ。寒い冬のあいだ、この靴たちが子どもたちの小さな足をしっかり守ってくれるようにと願う。



その夜、アフガニスタンに関するさまざまな情報を聞く。なかでも印象に残ったのは「死のダンス(Dead Dance)」と「売春」についてだ。
「死のダンス」はタリバン制圧後の北部同盟による処刑方法だ。その方法は2説あり、一つは首を切り落とした胴体を熱いトタン屋根にのせる。すると神経がまだ残っている胴体が熱さから逃れるため踊るように動くというもの。もう一つはガソリンを飲ませて首を切り、胴体を焼くと炎の中で踊っているようにみえるというもの。いずれも踊るようにみえるため「死のダンス」とよばれ、その残虐さによってあまりにも有名な処刑方法だ。
一方、アフガニスタンではあまり聞かれない「売春」だが、日常的に行われているらしい。中国人が経営するホテルがよく利用され、売春するのは出稼ぎの中国人女性やブルカを着て物乞いする女性だが、ストリート・チルドレンも少なくない。相手として選ばれるのは女の子も男の子もいる。市場で声をかけてホテルに連れ込むときに目立たないため、むしろ男の子の方が多く選ばれるという。買う側は中国人やアフガン人だ。アフガン人でもお金さえ持っていれば、そんな難しい話しではないという。やりきれない話しだ。
一方、前日のニュースでカルザイ大統領とUNの連名で「約6〜7カ月後に国内難民を収容する施設を建設する」という声明が発表されたという。めずらしく希望のもてる情報なので、その是非を確認すると、似たような声明はずっと発表されてきたが実行されたためしがないので鵜呑みにできないという。しかし、それでも、悲惨な日常を生きる多くの国内難民のために、それがいつか実現されることを祈らずにはいられない。


帰路


●2005年6月28日(TUE)
カブール出立の日。朝5時30分にペシャワルに向けて出発する。カブール市内を抜けると断崖絶壁の難所Mi Per(マイパール)に出る。ロシア軍との戦闘が最も激しかった地域の一つだったところだ。ここを過ぎてすぐに通行止めを受ける。その先で道路の爆破工事があるため、終了するまで待たなければならないというのだ。今日中に国境を越えるためには午後5時までにトルハムまで辿り着かなければいけない。出入国管理局が閉まってしまうからだ。しかし、これからカブールに引き返して別の道で行くのも時間のロスにちがいない。そう考えて留まることを選ぶ。
爆破した岩盤が除去されるのを待つ間、わたしたちの車の前には国際治安支援部隊(International Security Assistance Force)、通称ISAFの戦車が数台連なっていた。ISAFはアフガニスタンの首都カブールとその周辺の治安維持などを任務とする部隊で、2001年12月20日の安保理決議に基づいて構成された部隊だ。イギリスの主導により欧州諸国を中心とする19カ国、約5000人で構成されている。しかし、このISAFも現在ではイスラム過激派のテロの標的になっており、既にその犠牲者まで出ているのだ。
ようやく開通し、車を急がせる。帰りは南に向かっているため暑さも上昇してくるようだ。熱風を受けつつ走った結果、午後5時にトルハムの国境に辿り着く。ここで車を乗り換え、入国審査を済ませる。ここからペシャワルの入口までは治安警察の護衛も一緒だ。
午後8時、ペシャワル到着。宿泊先のアルキドマト・ファウンデーションにようやく辿り着いたのが午後10時、しかし、そこで待っていたのはうだるような暑さだった。その頃、ペシャワルは連日50℃近くの猛暑に襲われ、既に死者が70人にものぼっていた。ここでも連日の猛暑で部屋の冷房が故障したというのだ。汗とホコリにまみれて疲弊した肉体に追い打ちをかけるような知らせだ。眠ってみようとするが、あまりの息苦しさに眠ることもできない。具合の悪いメンバーもいる。そこで急遽、冷房完備のホテルに移動することになった。長い一日の終わりをようやく迎え、就寝についたのは午前1時過ぎ。
翌日、いよいよ帰路に着く。
3時間のドライブを経てイスラマバードに到着。
その翌日の午後11時35分、パキスタン航空852便は、わたしたちとこの旅で去来したさまざまな思いを乗せてイスラマバードを発った。



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