天災と人災のあいだで


■はじめのことば
2011年3月11日14時46分頃、太平洋三陸沖を震源とした「東北地方太平洋沖地震」が発生、日本政府はこの地震による大災害を「東日本大震災」と命名しました。4月8日現在の警察庁発表では余震も含め、死者・行方不明者合わせて2万7778人を数えました。
大震災は京都ー大阪(京阪)での展覧会を終え、わたしたちが東京に帰省して一息ついた矢先の出来事でした。余震・原発事故を懸念するなか、判断停止状態のまま与えられた情報をただ受けとめる日々が続きました。しかし徐々にわたしたちの中に「今回の震災は何をもたらしたのか?」という疑問と「被災地の子どもたちに会いに行く」という衝動が芽生えました。それは、この震災をメディアを通して「観察する側」から、現場で「自分の眼で見る側」に立ちたいという衝動といっていいかもしれません。
当時は他県からの民間女性のボランティアの受け入れがまだ難しく、その中で受皿を持っていたのが宮城県仙台市若林区と福島県郡山市の災害対策ボランティアセンターでした。迷った結果、現地での宿泊施設を確保できる仙台市へ入ることに決めました。
現地滞在2日は被災地の現状や子どもたちを把握するには足りない時間でした。しかし現地での体験はさまざまな判断材料をわたしたちに与えてくれました。仙台市若林区では水道と電気が通じていたため自宅に戻れた人もいましたが、半壊・全壊問わず帰る場所を失った多くの人びとが避難場所で寄居し、強い余震が続くなか不安な日々を過ごしていました。一方、大津波が直撃した仙台市沿岸部荒浜の光景は被害の凄まじさを物語っていました。
「水的通信vol.8」では、これら被災地での体験を京阪での展覧会と併せて報告することにしました。限られた紙面の中で、わたしたちなりの見聞と考えをみなさんに届けられたら幸いです。


■宮城県仙台市へ
大震災から2週間目の3月25日、わたしたちは宮城県仙台市若林区に向いました。滞在期間は2泊3日、単独行動を避け、現地のボランティアセンターに登録しての被災地入りです。
往復は高速バス、復路は仙台市発が満員のため福島経由の夜行バスとなりました。救援物資は一通りあるなか現地に子どもの遊具がまったくないという助言を受け、かさばらない遊具もいくつか持参しました。
往路の東北自動車道はひっそりとし、まばらに走る車両は陸上自衛隊、高速バス、路線バス、石油タンクや物流トラックなど。どの車窓にも「緊急車両」「災害派遣輸送」等の表示シールが貼られていました。高速沿道の田畑に人影はなく、店や工場も閉鎖され、一瞬にして人間だけが消えてしまったような寒々とした光景が曇天の下に続いていました。
午後3時、仙台駅到着。駅ビル内は暗く全店舗のシャッターが降ろされていましたが、人口約103万人の政令指定都市だけあって駅周辺はヨドバシカメラやLOFTなどの大型チェーン店に囲まれ、通常の賑わいを彷彿とさせています。わたしたちの宿がある若林区木ノ下はその中心街から市営バスで約15分、仙台市社会福祉協議会(社協)主体の「若林区災害ボランティアセンター」は宿から徒歩約10分の若林区役所の2階に設置されていました。
宿にあった地方紙『河北新報』を開いてみると、震災以降<生活関連情報>欄が見開きで設けられ、「医療」「学校・保育所」「ガス・電気」「通信・放送」「宿泊・風呂」「金融機関」「交通機関」「支援」などの他に「遺体安置所」情報も掲載されていました。宿の方によると、テレビ・新聞ともに宮城では宮城の被害を大きく報道し、岩手や茨城や福島の震災被害が伝わってこないとのこと。「東北での計画停電が解除されて関東圏の人に済まない」とも語っていました。
翌26日と27日は「若林区災害ボランティアセンター」に登録して避難所に入りました。ボランティアの登録・受付を済ませ、待機所で"マッチング"と称されるやり取りが交わされました。支援する側と支援を要請する側のニーズに合わせてグループ分けされ、各避難所や個人宅に移動するというものです。NPO法人での体験やチャイルド・マインダーの資格を活かして、子どもたちに関わる支援をしたかったのですが、そうした支援要請をのんびり待つ余裕はありません。避難場所となっている学校に行けば人びとや子どもたちの声も聞けるだろうと判断し、早々に若林区六郷小学校の要請に応えました。学生玄関と各階のトイレ掃除、支援物資の荷運びなどが、当校の支援要請でした。
六郷小学校の避難者は約100名、前日に卒業式が行なわれたため体育館で避難していた人びとは校舎2階に移動していました。5日前に電気と水道が通じて住民の多くが自宅に戻るなか、避難していたのは床上浸水の被害を受けた下飯田の住民方などでした。その一家族と話しを交わしたところ、ご主人は消防隊員として震災以来休みなく働き続け、その日15日振りに家族の待つ避難所にやって来たとのこと。この2週間、言うのも憚れるほどの凄惨な光景を眼にした、と憔悴した声で語ってくれました。

■震災の影
翌27日は七郷中学校へ。当校では校舎1階と3階の床の掃き掃除、避難民用の炊き出し鍋や調理用具の洗い物、ダンボール整理に加え、避難所となっている武道館で傾聴などをしました。
校庭の水飲み場で洗い物をしていた時、1台の車が止まって初老の女性が「ここの水、飲めますか?」と聞いてきました。被災地の荒浜付近の避難にはまだ水道が通じていないそうなのです。水をタンクに貯めながら女性の語ったところによると、5カ月前に荒浜に新築したばかりの自宅は全壊し、息子さん宅でも事務所にしていた2階のパソコン3台とテレビが翌日には盗まれたそうです。駐車していた自動車のフロントドアが外されるなど、あちこちで盗難が頻繁に起きているとのこと。そして「たとえ住めても二度とあそこには住みたくない」とも。いまでも怖い夢を見るそうで、とくにお孫さんが毎晩のようにお墓の夢を見ると語っていました。
天災によって共有する苦痛は人を謙虚にしますが、その人間性が一日で豹変することもあります。避難生活が長引くほど避難者同士の諍いは起きています。震災の1日目にはきちんとなされていた物資の「譲り合い」が、2日目には「奪い合い」に豹変するケースもあるそうです。
また、これは正式に報道されていませんが、強盗と同じく強姦も多発しているといいます。発生場所は主に避難所や被災地付近で、自転車でボランティア活動したり移動したりする女性が強姦されるケースもあるそうです。午後3時までにボランティアセンターに戻る指示が何度も繰り返されていたのも、そういう不穏な背景を念頭に入れてのことだったのかもしれません。

■遊びたい子どもたち
七郷中学校に避難していたのは約120名、武道館に100名余り、他は校舎3階で避難生活をしていました。ここの体育館には前日まで多くの避難民がいたそうですが、天井の亀裂を憂慮して約400名が若林体育館に移されていました。ここでもか…、という思いがよぎりました。六郷小学校での状況と同じように避難者が漂流させられている避難生活が窺えました。



武道館の避難者の多くは、昼間は仕事や浸水被害を受けた自宅の片付けなどに出払っていました。車座になって話す女性たち、漫画やゲームに没頭する小中学生、「早くここを出て帰りたいよ」と駄々をこねる老爺や背を丸めてポツネンと座っている老婆などが眼に映りました。
その老婆に話しかけてみると、77歳で荒浜で一人暮らしをしていたとのこと。「この熱が下がったら、わたしゃ動きだすよ」としっかりした口調で語っていました。しかし荒浜にあった彼らの家は流され、実際は帰る家もないのです。「元気が出たらこれを膨らませてね」と子どもに持参してきた紙風船を老婆に手渡すと、家に帰りたがっていた老爺が近づき「わしにも一つ」とおねだりします。みなの顔にふと笑顔がほころび、澱んでいた空気がそこだけ少し弾けました。
ここでは一人の幼子にも出会えました。両親が勤めに出ていて一人で留守番をしていた5歳のHくんです。よほど遊びに飢えていたのでしょう…、声をかけて紙風船を渡すと、飛んだり跳ねたり、とても嬉しそうです。「もっと! もっと!」というHくんのはやる気持ちに応えて武道館の外でシャボン玉遊びもしました。サッカー模様の紙風船を渡すと、大興奮して何度も何度も蹴っては膨らませていました。
そのうちHくんのお祖母さんがいらして、色々と話しをてしくれました。「この子の家族は地震と津波の1週間前に荒浜からこちらへ越して来ていたため助かりました。遅れていたらあそこにいたはずだから…」とのこと。明日からはHくんが保育園へ通えると聞いて少し安心しました。
また、その横で漫画を読んでいた中学2年の少年も起き上がって会話に加わりました。少年に「いま、なにがほしい?」と聞くと、「帰る家がほしい」と答えます。荒浜に住んでいた少年の家族は全員無事でしたが、彼の家もまた津波で流されたのでした。
武道館を去る際に館内を振り返ってみると、Hくんが隣のお兄ちゃん(中学生の少年)と紙風船のサッカーボールで楽しそうに遊んでいました。少年の顔も笑顔です。紙風船のサッカーでも嬉しがるほど、子どもたちは遊びたいんだな、体力・気力を発散したがっているんだな…と思わされました。(つづく→)



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