天災と人災のあいだで


■絶望より悪いもの
帰る家もなく、あちこち移動しなくてはならない漂流難民のような避難生活。当然、避難所には倦怠感や疲弊感が漂っていました。2週間にわたる避難生活の疲労とストレスの増大。そこから引き起こされる諍い。個人的生活空間のない日々が続くなか精神的余裕や個人的な選り好みは失われ、衛生観念や気遣いといった日常生活の些事に向ける気力さえもないようでした。
塞いでいたり、エネルギーを持て余していたりする子どもや若者を見かける一方で、無気力状態の大人やお年寄りの姿も見受けられました。加えて、それら多くの避難民を支える現地ボランティアたちの疲弊もピークに達していたはずです。どの避難所でも「ありがとう」という言葉を必ずかけられましたが、その眼や口調に虚ろな響きを聞き取ったような気がしたのです。被災地でありながら誰一人大げさな感情をあらわさず、単一な感情に支配されているような一種奇妙な無関心さが漂っていました。
連日起きる震度4強弱の余震に慣れ始めている怖さを宿の主人が語っていましたが、人間は順応し適応する生きものであり、それが人間の強みでもあります。異常も日常化すると慣れてしまうのでしょう、防衛本能が働いて一種の麻痺状態に陥らせるのかもしれません。しかし不幸の中で「絶望に慣れること」は「絶望」そのものよりも悪い状態であり、そこに陥ったままでいいはずはありません。奇妙に聞こえるかもしれませんが、せめて彼らの内に憤りと反抗心が残されていることを願いました。
多くの家族が移動した若林体育館には子どもたちも多くいるという情報を得たのは、わたしたちが現地入りして3日目のことでした。しかし当夜の福島発の夜行バスに乗らなければならないため、若林体育館へ向う時間はありませんでした。そこで東京から携えてきた子どもたちの遊具を仙台市社協若林区事務所長・古澤良一氏に託し、被災地を後にしたのでした。



■大津波の爪痕
26日、ボランティアの後、被災地の一つ仙台市沿岸部の若林区荒浜へタクシーで往復しました。警戒線となっていた仙台東部道路(太平洋沿岸を南北に走る有料道路)を越えると潮の匂いが漂い、同時に景色も一変しはじめました。
タクシーから見える景色は、テレビや新聞で見た映像と肉眼で直視する現実の違いを改めて教えてくれました。かつて田畑だった場所に押し寄せた泥まじりの海水の上に家屋や看板や車などが浮いており、絶句するという言葉そのままの光景が浜辺まで延々と続いていたのです。この泥の海水に襲われたら泳ぎの達人であれ手足を絡めとられて窒息してしまったにちがいない。この泥の海水の下にはまだ多くの溺死体が眠っているのだろう。それら遺体を探し出すためにも、この海水をどう引かせ、この瓦礫をどう撤去するのか? これら想像を絶する瓦礫の山を前に、今回の津波災害による瓦礫撤去量が宮城県だけでも約23年分といわれ、自治体の負担だけでまかなえるものではないことを納得させられました。
交通規制もあって、浜辺の往復路を行き交うのはテレビ取材班や陸上自衛隊などの車でした。その瓦礫の中で一列縦隊になって何かを探している2、3人の姿が遠くに見えました。おそらく家族でしょう、彼らが探しているものは津波で失った物なのか人なのか…、遠くからでも感知できるほどの真摯なその探索風景が眼に焼き付きました。
そして辿り着いた荒浜、浜辺に冷たい海風が強く吹き付けてくるほかは、防波堤を越えて見晴らかす海は何事もなかったかのように穏やかに美しく凪いでいました。しかし2週間前ここは津波に巻き込まれた200〜300人の溺死体が打ち上げられた浜辺なのです。現在も今回の震災の死者・行方不明者数はもとより、被災孤児の正確な人数も把握されていません。そして明確な所持品がない限り、今後さらに遺体確認は困難を極めるでしょう。

■死者を悼む
今回の震災で亡くなった成人前の死者数とその割合を示すデータを探してみましたが、どこにも探せません。そこで、3月31日現在の警察庁発表の身元が確認された死者一覧表をもとに自分たちで「年代別死者数」のデータを割り出してみることにしました。それが下図の円グラフです。



死者・行方不明者数2万7979人、うち12都道県警の検視で身元が確認された死者は1万1438人、岩手/宮城/福島3県の死者は1万1378人。死者の年代別割合は20歳以下が低く、60歳以上の割合が圧倒的に高かったことが確認されました。
しかし、この作業は思いもしない結果も導きました。割合を出すためにPDFで印刷した一覧表を手にした時の感覚、県ごとの一覧表の厚みや重さに被災地の凄まじい光景を目の当たりにした時には抱かなかった追悼を覚えたのです。宮城→岩手→福島→他県の順に厚さも重みもちがいました。県ごとの死者数、被災地が過疎化にあった事実、それゆえに原発も誘致されたのだという事実、それらすべてが既知の事実でありながら、それを改めて知らされるところに人の死の重さがありました。
さらに県ごとの一覧表に蛍光マーカーを引きながら年代別に氏名・年齢・住所を追う行為が死者一人ひとりに思いを馳せ、それが「死者を悼む」ことに結びつくとは…。おそらく既製データの引用、もしくは数字を打ち込むだけの表計算で割り出せたとしたら、そのような悼みを抱く由もなかったでしょう。わたしたちの報告に「追悼」が添えられるためには、大震災から派生した忸怩たる気持ちを消化させるための手間と時間が必要だったのかもしれません。

■天災と人災の違い
……天災というものは人間の尺度とは一致しない。したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。ところが、天災は必ずしも過ぎさらないし、悪夢から悪夢へ、人間のほうが過ぎ去っていくことになる。……この世には戦争と同じくらいの数のペストがあった。しかもペストや戦争がやって来たとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。…戦争が勃発すると、人々はいう----「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そして、いかにも戦争というものはたしかにあまりにもばかげたことであるが。しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。愚行はつねにしつこく続けられるものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ、そのことに気づくはずである。(カミュ『ペスト』1947/宮崎嶺雄訳)
この言葉には人間の普遍的な無用心さと軽卒さが示され、僥倖はだれの味方でもないことを教えられます。
はたして一瞬にしてすべてを奪われる者の心境とはどういうものでしょうか? 荒ぶる自然が人間に与えた悲運と暴虐の数々。それによって背負う悲惨と苦痛。人間のあらゆる恐怖がすべてを圧倒する様。洪水、地震、津波、疫病、いままでもこの世には無数の天災がありました。そこに浮かび上がらせるものは、個人の運命や感情といったもの以上に、集団的な史実とその被害者たちが共にした感情や思いでした。
今回の震災でも被害者たちはさまざまな感情を共有したにちがいありません。しかし日が経つにつれ、同じ被害者でも家や家族を失った者と失わなかった者の心のありようの違いも顕著になってきています。ましてや天災に加え、原発事故という人災に見舞われた福島県の被災者たちの心境や感情が他県のそれと違うのは歴然です。その違いは地震と津波が天災であるのに対し、福島の原発事故が人災だからです。しかも今回の原発事故は「犯罪」にも等しい確信犯的人災といえるのではないでしょうか。
同じ太平洋沿岸にある東北電力の宮城県石巻市の女川[オナガワ]原発は地震発生時はほぼ無傷でしたが、宮城県原子力防災対策センターは建物が津波被害を受けて崩れ、職員1名が死亡、4名が行方不明となりました。その原発も4月7日夜の余震で停止中の1〜3号機原子炉建屋の使用済み燃料プールなどで水漏れが確認されています。
東京電力が福島第1原発の建設時に想定した津波の高さは5.7m。その上で1〜4号基は海抜10m、5、6号機は13mの土地に建設したそうです。一方、東北電力の女川原発は9.1mの津波を想定し、海抜14.8mの高台に建設したとのこと。この約5mの標高差によって非常用の電源設備とそれを冷やすポンプなどが津波の被害を免れたそうです。
平安時代前期869年に東北地方を襲った「貞観地震」の規模はM8.3以上と推定され、今回の大地震・大津波との類似点が指摘されています。古い地層から過去の津波を調べている古地震学者たちは、この「貞観地震」から東京電力の想定を超える津波襲来の可能性を指摘し、対策を講じるよう東京電力に助言していたのだそうです。また明治29(1896)年に高さ38m以上の津波を引き起こした「明治三陸沖地震」や、2004年の「スマトラ島沖地震」のインド洋大津波なども念頭に入れておくべきだったはずです。しかし東京電力はそれらの声や史実に耳目を傾けようとはしませんでした。
このことからも明らかなように「すべては想定内」の事故でした。「想定外だった」と語ることは研究者や官僚としての責任を放棄していることに変わりありません。「故意に想定しなかった」東京電力と政府と原子力安全・保安院、そして原発を誘致した地方自治体の責任は極めて重大です。
また今回の福島原発事故は、明治時代後期に発生した足尾銅山鉱毒事件(栃木県/群馬県の渡良瀬川周辺)、そして高度経済成長期(1950年代後半〜1970年代)に発生した四大公害病----水俣病(熊本県水俣湾)・第二水俣病(新潟水俣病/新潟県阿賀野川流域)・四日市ぜんそく(三重県四日市市)・イタイイタイ病(富山県神通川流域)----を想起させます。これら辺境の村落を頂点として発生した産業公害は多くの住民の命や身体機能を奪い、日々の営みを破壊しました。しかし産業公害問題は国や企業による資本主義政策と棄民政策に支えられ、時代の流れのなかで風化していきます。救済されない被害者たちの嘆きを置き去りにして。天災も人災も人の命を奪いますが、人災は人の心も破壊します。しかも原発事故で奪われるのは幼い子どもたちと若い世代の人びとなのです。
地震・津波で破壊された上に原発事故による被曝や風評被害などで二重に苦しむ福島の人びとを思うとき、水俣病で苦しむ人びとの声なき無限地獄、引き裂かれ崩壊する世界を描いた『苦海浄土ーわが水俣病』の一節が重なります。
……水俣病患者とその家族たちは、たんに病苦や経済的没落だけでなく、人と人とのつながりを切り落とされることの苦痛によって苦しんだ人びとであった。(石牟礼道子『苦海浄土ーわが水俣病』1972)




その一方で、北アフリカでまた新たな戦争が勃発しました。震災1週間後の3月18日(日本時間)、国連安全保障理事会がリビアへの軍事攻撃を容認する決議案を採択、20日未明には米英仏を中心とする多国籍軍がリビアへの攻撃を開始しました。表向きには「カダフィ独裁政権による大量殺戮を阻止するための人道的措置」とされる軍事攻撃ですが、本当の狙いは欧米国がリビアの莫大な石油資源を獲得するためとされています。そして日本政府はこの軍事行動を支持し、日本も戦争に荷担することになりました。多国籍軍の軍事攻撃にさらされ、リビアでは民間人が多数死傷しています。戦乱が長引けば、そのなかでまた多くの犠牲者がリビア国民から出ることは必至でしょう。
人災による最たる愚行は戦争ですが、「人間を破壊する」という意味では産業公害も原発事故も同等です。原発事故難民は国外退去を余儀なくされた戦争難民と同じ立場にあります。そして人災はいつも権力者を支えるために起こり、弱者が徹底的に切り捨てられる連鎖を生みだします。人間社会ばかりか自然そのものを操り変えてきた報いといえば、人類全体の責任といえるかもしれません。しかし徹底的な破壊、これを食い止め得るものもまた、同じ人間の手と意志によることはいうまでもありません。(つづく→)



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