天災と人災のあいだで


■日本の原発の実態
日本は原発保有数において世界第3位、国土面積比率において世界第1位の原発保有国です。これらの原発を維持するためには高い技術が必要ですが、今回の震災で日本にはその技術がないことが明るみになりました。
巨大地震の発生が最も懸念されるフォッサマグナの上に建造された静岡県の浜岡原発など、その設置場所は世界的常識からすると無謀で尋常ではない選択とされています。実際、浜岡原発や他の原発に想定外の地震と津波、想定外の原発事故が起こらないとは既にいいきれません。
さらに原発で働く下請け労働者=原発労働者(被爆労働者)の問題があります。彼らは下請け、孫請けと8代も下の会社に雇われている場合も少なくありません。そのため劣悪な労働条件下、安い賃金で働かされ、被爆やケガをした場合も下請け業者が上の業者や電力会社をかばうことで握りつぶされ、表沙汰にはされません。原発労働者の実態が社会に知られていない原因がここにあります。かつて原発労働者が訴訟を起こしましたが、その訴えは裁判所や行政の厚い壁に絡みとられ、被爆による労働災害は認められないまま今日に至っています。
臨時や日雇いの原発労働者数は電力会社の正社員数よりはるかに多く、彼らは原発の工事や点検、トラブルで汚染があった後の雑巾がけなど原発施設内のさまざまな作業に従事させられているのです。つまり、原発事故がなくても仕事中に被爆を強いられる下請け労働者がいなければ、原発は絶対に動かないということです。電力会社の社員もある程度は放射線を浴びますが、原発労働者が浴びる放射線の量に比べて非常に少ないという原子力資料情報室(CNIC)の調査報告もあります。当然、放射能を浴びて社員が病気になったり次々と死んで社会問題になっては会社が困ります。そこで会社の責任を離れた下請け会社の原発労働者に放射線を浴びるような危険な作業をやらせているというのです。ちなみに今回の福島原発事故で現場作業に従事している自衛隊員からも相当な不満が出ているそうですが、それらもすべて押え込まれているそうです。
そのほかにも放射性廃棄物(核のゴミ)やコストの問題があります。これは非常に深刻な問題でありながら、その廃棄物をどうするかは日本の政策としてまだ立っていません。政策として立てるためには廃棄問題は電力会社だけでなく、日本政府や日本に暮らす人びとがきちんと認識し、積極的に議論に参加・関与していかなければならない問題でしょう。また原発にかかる費用もグレーなままで、現段階では誰も把握できていないのが実態だそうです。放射性廃棄物をどう処理するか決まっていないことは、処理費にどれだけのコストが出るのかを確定していないことでもあります。では、いままでどうしてきたかというと、原発のゴミ処理のコストは計上しないことにしてきたそうです。いわば不正確な議論を意図的にしてきたというのです。それ以外に生じるコストでは発電設備だけでも最低5,000億円、より大型化・複雑化している最近の原発建設工事では9,000億円を超える場合もあると報告されています。
原発安全神話が崩れ去ったいま、国策としての原発推進は岐路に立ち、原発の代替エネルギーを真剣に模索する時期を迎えたように見えますが、政府・財界では今回の事象と事故から教訓を得る気配はなさそうです。3.11以前も以後も変わらぬ金権政治を続け、私利私欲に走り、復興特需を目論みつつ、官僚は狡
猾に立ち回り、企業は官民の間で甘言を操り、「想定外」を理由に責任逃れをする構図は変わらないのでしょうか。



■真摯な原発反対の声
「日本のジャーナリズムは死んだ」といわれて久しいですが、3.11以降、とくに原発事故におけるメディア媒体のあり様はまるでその判断をなぞるかのようです。
「風評被害を避ける」「いたずらに不安を煽らない」というもっともな理由を楯に当たり障りのない報道で国民の耳目をそらし、知らせるべき真相を隠蔽しているような気がする人も少なくはないでしょう。政府と原発の御用学者がテレビで繰り返し唱える「ただちに人体に影響するものではない」の言葉も同様です。その異口同音に懐疑を抱く人にとってネットや携帯電話の普及は幸いでした。原発反対・推進いずれにせよ、少なくとも自ら別の意見を探し出し、交換し合い、検証することを可能にしたからです。
しかし冷静に聞けば、御用学者たちの言葉にも大きな矛盾があります。福島第一原発から飛んでくる放射性物質の濃度は風向き次第で毎日変わるとされます。すなわち、「ただちに人体に影響がない」と唱えることは「長期間、つまり時間が経過すれば人体に影響する」という答えを導き出すことになります。しかも、それこそが長い潜伏期間を置いて発ガンを誘発する放射性物質の「体内被爆」という典型的な被害を示唆していることに気づかないまま…。「いまは大丈夫」と発言を繰り返しているだけの御用学者たちの方がむしろ、国民の不安を煽っているような気がしてなりません。
原発問題を考える中でさまざまな情報を参考にしましたが、ここでは次の3つを紹介しておきます。まずはインターネット百科事典ウィキペディア(Wikipedia)に掲載されている「原子力事故」です。今回の福島原発事故をはじめ、過去日本国内で起きた数々の原発事故の詳細が網羅されています。
次はノンフィクション作家・広瀬隆氏が毎日新聞で指摘した言葉の抜粋です。広瀬氏は1979年のスリーマイル島原子力発電所事故(国際原子力事象評価尺度[INES]レベル5)を機に数々の著作と講演会を通して、市民に原発問題を提起し、その危険性を訴え続けてきました。震災後の3月23日に早稲田奉仕園スコットホールで行なわれた緊急報告会、YouTubeに流されている「広瀬隆/広河隆一:福島原発現地報告と『原発震災』の真実」は必見です。YouTubeサイトへは「広瀬隆、23日」などの検索キーワードでアクセスできます。
……これは人災だと考えています。その責任の所在は東京電力だけでなく、菅直人政権、経済産業省の原子力安全・保安院、原発を推進してきた大学や大学院教授らにもあると言えますよ。…そもそも、東電は原発の単なる「運転者」なんですよ。詳細な構造は原発メーカーの技術者でないと分からない。保安院の職員も分からない。これを解説している学者も「現場」を知らない。
メディアはなぜ、東電や政府の発表を垂れ流すのでしょうか。放射能が漏れていても「直ちに人体に影響を与えない」と繰り返しています。しかし、発表されているのは1時間当たりの数値。365日×24時間で計算してみなさい。
想像力もなく、レントゲン並みとか自然界の何分の1と報道している印象です。漏れるという「異常」に対する驚きも怒りも薄れている。福島から排出された放射線は宮城県の女川原発付近でも検出されましたし、風向きによって関東地方にも達しています。仮に最悪の事態に至ったならば、放射能汚染は1週間ぐらいかけてじわじわ列島を包んでいく。逃げる場所は全くありません。(広瀬隆「想定すべき人災」特集ワイド:東日本大震災福島原発事故、専門家に聞く最悪の事態、制御できるのか/毎日新聞)

最後は平井憲夫氏の遺言ともいうべきメッセージの抜粋です。平井氏は数々の原発で配管技士や現場監督としてたずさわり、退職後は原発事故調査国民会議顧問などを務めたのち被爆による癌で1997年に亡くなりました。氏の言葉には学者とは違った現場労働者の説得力があります。また彼の視点が常に未来を担う子ども側に立っていることにも啓発されました。氏の全文は下記URLで読むことができます。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.htm
……チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。
でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。もんじゅの事故のように本当のことはずーっと隠しています。
原発は確かに電気を作っています。しかし、私が20年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。
みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。だったら、事故さえ起こさなければいいのか。平和利用なのかと。そうじゃないでしょう。私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。それに、安全なことと安心だということは違うんです。原発がある限り安心できないのですから。 それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。
だから、私はお願いしたい。朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。
ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っています。原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。(平井憲夫「原発がどんなものか知ってほしい」1995)
平井憲夫●1997年1月逝去。1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく閉鎖。



■3.11以降の日本に向けて
わたしたちは「まず現場を自分の眼で見ること」を土台に活動を展開していますが、震災から2週目の被災地入りは時期尚早だったともいえ、やや遅かったともいえます。しかし2週目を迎えた被災地でしか見られなかったものもあったと信じています。あの当時、被災地では余震とともに人心も大きく揺れ動いていました。そのなかで、わたしたちはさまざまな光景と人びとの姿を見てきたのです。
ニュース映像を見て「可哀想だ」「悲惨だ」「立派だ」と嘆息したり涙を流したりするのは簡単です。「思いやりだ」「希望だ」「愛だ」とテレビで繰り返し流されるAC JapanのCMを見て感じ入るのも自由です。テレビや巷で見られる「ガンバロウ、日本!」「ニッポンは強い国!」「みんな一つに!」という呼びかけが、日本戦時下に唱えられたスローガン「一億一心」「進め一億火の玉だ」「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」などに重なって薄ら寒いものを感じるのは気のせいでしょうか。「個を捨てよ!」と聞こえるのはわたしたちだけでしょうか。
今回の震災が他人事ではないと感じることも、被災者を応援するのも自然な道理です。しかし全国民が被災者ではありません。「ガンバレ、東北!」は理解できますが、「ガンバレ、日本!」には違和感を覚えます。ある日突然、否応なく日常生活を奪われ、愛しい存在を失い、恐怖と喪失感に苛まされているのは被災を受けた人びとであり、そこから立ち上がるのもまた東北や北関東の人びとだからです。
時代は変われど、国に根付く「まぼろしの共同体」は強固にあり、その精神性もなかなか変えることはできません。しかし、その共同体の影でこの震災をチャンスと考え、ほくそ笑んでいる人間もいるはずです。
4月10日の第17回統一地方選の強行実施、埼玉県知事による埼玉朝鮮学校への補助金支給保留(事実上2011年度の支給無し)の一方通告など、震災のドサクサに紛れて利権を確立しようとしたり、責任転嫁しようとする気配や輩の台頭に危惧します。今回の大震災の陰で蠢きはじめているなにか…、全国から集まった莫大な義援金の使途や行き先…、ここぞとばかりにあちこちから魑魅魍魎が現われてきそうな予感がします。そしてこれこそが、わたしたちが立ち向かうべき、現代にはびこる生きた悪霊ではないでしょうか。

今回の震災を「因果応報」とする集団的懲罰、集団的啓蒙、人類の救済、盲目の善意、偽善の美徳といったものでくくらないためにわたしたちがいま必要とするのは、ただ天上にひざまずいて願うことではなく、地上に踏みとどまって闘う「勇気」、悲運に抗う「義憤」ではないかと思わされます。
……自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである。(エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝〜構想された真実』2002/中本義彦訳)
その闘い方はなんでもいいのです。ただし、そのためには同情や憐れみから生じる庇護意識と無意識の被害者意識を捨てなければなりません。善は悪とともに取りあげられ、美徳と同じくらい悪徳も明確にされ、必要以上に憐れんだり肩をもつことなく、人間の生全体を受け入れるべきです。
過去の天災・人災で負った悲惨と苦痛、追放と喪失、流された涙と死者の血、その多くを犠牲にするなかで先達が遺し得た<知識と記憶>を想起・駆使し、「善良な市民」という安全な仮面を脱ぎ捨て、わたしたちはいまこそ「学び・闘う民」になるべきではないか、と考えます
。 ……今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。(カミュ『ペスト』1947/宮崎嶺雄訳)


ひとり孤独に閉ざされた魂は、自らの中に笑いを見いだせません。潔く見つめ、善く苦しみ、誠実に闘い、子どものように真剣に遊び、いまをだれかと共有すること。シニカルで個人的な笑いではなく、だれかと声を出して笑い合うこと。苦しみを分かち合うのと同じように、わたしたちには共有する笑いが必要なのです。
2011年に日本に起きたこの事象も「未来の視線」で検証される日がくるでしょう。100年後、200年後、この大震災は一体どのように記録され、どのような記憶として未来の人びとに伝わるのでしょうか。はたして、その未来では幾時代にもわたって繰り返されてきた破壊による「取り返しのつかないこと」のいくつかを、その子どもたちに取り返せているのでしょうか。
いま幼子を抱えた親たち、子どもと未来の可能性を信じて動かんとする大人たち、彼らが共に信じる未来をその子どもたちに示すことができることを。
その未来がいまより少しでも改良されることを信じつつ、未来へつなげるほんの1ミリの糧となる活動をわたしたちは続けていきます。



■安らかな眠りを
震災で失われた命も、いまを生きるわたしたちの命も、ともに等しく、安らかな眠りを。
かつて海より生まれ、海に育まれ、その内に海を抱く人の子らすべてに。老人たち、若者たち、子どもたち、そして産声をあげる赤子たちすべてに。
破壊された家庭、築かれる家庭、夫と妻、親と子、友と友、そして許し合う恋人たちに。美しい人、逞しい人、賢い人、恥じる人、苦悩する人、沈黙する人、そして声を抑えて泣く人に。遠くて近しい過去と未来、無垢な笑い、共鳴しあう木霊、深い孤独、そして失われた愛に。
泥土とともに海底に眠る幾万体の魂を悼むための、見知らぬ人の手を取り未知の世界へ踏み出す誠実さと勇気を培うための、義憤を噛みしめ虐げられたものの涙をふくための、安らかな眠りを。
それは生きる者の至上の休息と治癒力にして、死者を慰撫するための鎮魂曲である。



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