耳を澄ませる展覧会



2007年2月、約1カ月間にわたり京都と大阪で「カブールの幽霊・物語展 /京阪 2011」を展開してきました。
今回は"耳を澄ませる展覧会"という新たなコンセプトを土台に「物語展」としました。すなわち、アフガンの子どもたちの幽霊の絵を見るだけではなく、一枚一枚の絵に込められた物語に耳を澄ませるものとして実感していただくための展覧会です。
「物語展」としたのは、従来の絵画展のスタンスでは伝えきれなかった「何か」を表現するためでした。「何か」というのは、それら絵画に通低する"思い"や"考え"のようなもので、こうした"思い"や"考え"を前面に提示することは、いわゆる芸術性を示す一般の絵画展には適さないと考えられています。
これまでは「アフガンの子どもたちの絵」というよりも一つのアート作品として「カブールの幽霊展」を展開してきました。子どもたちの絵画がそれだけの力量を示すものだと思うからです。しかし、その展示の仕方ではアフガンの子どもたちが置かれている状況を伝えきれていなかったのではないかという反省が芽生えました。
アート作品としての展示は描く者を個人として捉えさせ、そこに描かれる現実はあくまで個人的な心象、ないしは個人的世界観としての表現であり、同時にそれに対する見る者の視点や観念も個人的世界観で完結します。しかし、「カブールの幽霊」というのは、ある時代の状況を同時に生きた子どもたちに共通する"体験"なり"思い"であり、なによりもまず、それを伝えなければならないと考えたのです。わたしたちはその原点に立ち戻り、アフガンの子どもたちが共有した"体験"なり"思い"を表現するために一枚一枚の絵から掘り起こされた「物語」に焦点を合わせることにしました。
京阪での「カブールの幽霊・物語展」では、このコンセプトに沿って新たに物語を加えられた120点以上のパネル画が展示されました。結果、全体として「一つの時代の現実」の証拠としての「カブールの幽霊展」が新たに浮かび上がり、同時に「一つの時代の現実」の目撃者としてのアフガンの子どもたちの姿が見えてきたのではないでしょうか。




それらの物語は実際に幽霊に遭遇した体験談や夢の話、あるいは子どもたちの間で流布するジョークなど、さまざまです。しかしそこに通低するのは、長きにわたって甚大な人災と天災を被り、いまなお破壊と疲弊の中にあるアフガニスタンという国のある時代を目撃した事実であり、それは時に厳しい言葉として、時に突き抜けた笑いとして放たれ、わたしたちの中の「何か」を呼び起こします。こうしてみると、わたしたちの「カブールの幽霊」に懸けてきた思いは、子どもたちの絵に通低する「ある時代=状況の不条理」を暴き出すことにあるのかもしれません。そういう意味では、今回の展覧会はわたしたち自身の思いに最も近しい展覧会になったともいえるでしょう。
事実、今回の展覧会で顕著だったのが来場者の滞在時間の長さでした。来場された方一人一人がただ絵を見て回るだけでなく、一点一点のパネル画の前でじっくり読んでいる姿が印象的でした。一見バラバラに見えていた絵が一つずつ有機的につながって全体として大きな物語をなしている。そのことに気づいた来場者の多くがいま一度、会場を巡って全体を反芻する。そして、ここに展開されている「時代=状況」が単にアフガニスタンという一つの特定な場所に固有のものではなく、全世界的あるいは同時代的な状況や現象であることに気づく、という姿です。 彼らの姿は子どもたちの声に耳を傾け、耳を澄ませているように見えました。その姿を見るにつけ、わたしたちは「こんな展覧会があってもいいのだ」と実感し、勇気づけられたのでした。(つづく→)



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