●その小学校は、
カンダハルへ向かう
街道沿いにありました。












2002年12月、わたしたちは国境沿いの町チャマンからアフガニスタンへと入りました。
一路カンダハルへと北上するその道は、1980年代のソ連侵攻時に作られたもので、北はロシア、西はイランへとつづいています。アフガニスタンとのゲリラ戦によって撤退を余儀なくされたソ連兵が、戦車に乗って祖国へ帰還していったのもこの道でした。皮肉にも彼らの作った道が、祖国へ帰るための主要路にもなったというわけです。
道が整備されているのは途中までで、カンダハルの手前までずっとデコボコ道となります。車内から見えるのは、見渡す限り、乾いた大地に岩山が佇立している荒野でした。その岩山には、断崖や渓谷が複雑に入り組んでいるのだということです。

街道の路傍に、わずかばかりの石ころを積み上げた墓標が見えてきます。
一基だけのものもあれば、数基が寄り集まるようにして並んでいるものもあります。その墓標には、一本の棒が突き立てられ、くくりつけられた布きれが、風にはためいていました。いずれも、路上で死んだ者たち、難民としてこの街道を逃げているうちに不慮の死を迎えた者たちのための墓標にちがいありません。

しかしその荒野には、ところところで、何組かのテントが張られているのが見え、そこで暮らす人々の姿もあります。厳しい寒さを逃れて山から下りてきたキャラバンの人々です。彼らは、ラクダや羊を放牧しながらそこで一冬を過ごすのです。
なかには何を待っているのか、道沿いにあてもなくしゃがんで座っている子どもや女たちの姿もありました。
さあrに、道の途中で車を停めて、祈る人の姿も見られます。

さらに北上をつづけていくと、遠くにかげろうのような、大勢の人影が見えてきました。十数人の子どもや青年たちが、荒野でサッカーをしているのです。なにもない荒野のただ中でサッカーに興じている様子は、まるで蜃気楼のように思えました。
アグファ・ザーガンダ(Agha Zarghandha)村の小学校に通っている子どもたちと、その先生たちでした。



小さなモスクの横に、その小学校はありました。
ヌールニカ小学校(Noornikah Primary School)は学年ごとに3部屋に分かれていて、35人の子どもたちが学んでいました。
校長先生の名前はアブドゥル・カリム(Abdul Karim)氏。弱冠24歳の青年でした。この村の生まれだということです。
あまりにものどかな村のたたずまいに、このあたりには戦闘や空爆はなかったのか、と尋ねてみました。彼は、間近に見える岩山を指さしながら、あの山中にはよく空爆があった、と言いました。村の人々がその空爆の被害者を援けにかけつけたものだ、とも。

カリム校長もまた、山に向かった一人だったのです。
彼の言葉は、アフガニスタンでいまもつづいている戦争を、身近なものとして実感させてくれるものでした。
そして、わたしたちが小学校の子どもたちに文房具を贈ることを約束して、村に別れをつげたその帰り道、空に数台の米軍ヘリが飛んでいるのを、道に数台の米軍戦車が連なって通っていくのを目撃しました。ここでは、戦争は決して過去のものではないのです。

next→